椅子のない退職相談室
退職支援会社〈出口番〉の相談室には、椅子が一脚しかない。
相談者が座り、代表の天花寺曜は立ったまま話を聞く。右が茶、左が白の靴を履き、机には折り畳んだ会社案内だけ。
「出口は立って探す」
相談員の笹倉伊吹は、その言葉が嫌いになっていた。
入社から半年、伊吹は辞めたい人の話を毎日聞いた。深夜にもメッセージが届き、担当者だからと一人で抱えた。曜は奇妙な助言をするだけで、面談にはめったに同席しない。
ある朝、伊吹は唯一の椅子へ退職届を置いた。
「今日は私が相談者です」
「では座れ」
「座ったら、引き止めますか」
「相談者の出口を塞いだら、看板を下ろす」
伊吹は座らなかった。辞めたい理由を一つずつ話す。顧客を嫌いになったわけではない。けれど、眠る前まで誰かの絶望を持ち帰る働き方は続けられない。
曜は会社案内の裏へ、黙って線を引いた。
「辞めたいのは、この仕事か」
「今の担当の持ち方です」
「望む条件は」
「夜間連絡を当番制にする。危険度の高い面談は二人で受ける。相談終了後に、十分だけ記録を整理する」
「他には」
「私を、丈夫な人として数えないでください」
曜は初めて顔を上げた。
「それは条件ではない。こちらの誤りだ」
彼は退職届を破らず、受理印も押さなかった。伊吹が決めるまで封筒へ戻し、提示された三つの条件をその場で就業規則の改訂案にした。午後の面談には自分も入ると言う。
「簡単に変えるなら、なぜ今まで」
「君が立てていたから、立てると思い込んだ」
曜は倉庫へ行き、折り畳み椅子を一脚持って戻った。相談室の向かい側へ開く。
「椅子を増やすと、相談者が緊張すると言っていましたよね」
「上司と部下なら一脚で足りると思っていた」
左右違う靴が、二脚の間に並ぶ。
「出口は立って探す。だが、見つけた後まで立たせる必要はない」
伊吹は退職届の封筒を鞄へ戻し、新しい椅子に座った。曜も向かいへ座る。いつも見上げていた顔が、初めて同じ高さになった。
「今日の面談、二人で受けますか」
「そのための椅子だ」
一脚しかなかった相談室に、バディの席ができた。