次の契約主
玉座の間には、千枚の契約書が鎖のように垂れていた。
悪魔王オルザムを殺せば、飢饉の村、呪われた兵、魂を担保にされた子どもたちは解放される。そう信じて、キルネはここまで来た。
だが剣を突きつけた瞬間、オルザムは笑った。
「悪魔を殺した者は、その悪魔が結んだすべての契約を相続する。力も、債権も、真名も、姿もだ。それが我らの最初の掟だ」
玉座の脇で、同行者ベシアが息を呑む。
「殺せば、あなたが次の契約主になる」
オルザムの胸には既に剣が半分入っている。抜けば、悪魔王は傷を閉じる。押せば、千人の主人になる。
天井の契約書から声が落ちてくる。
《水をください》
《娘を返して》
《あと一年だけ》
願いと代価が重なり、玉座の間を満たす。
「私を生かせば、契約は続く」とオルザムが言う。「殺しても続く。違うのは、取り立てる顔だけだ」
キルネは剣を押し込んだ。
悪魔王の心臓が裂ける。
同時に、千枚の契約書が炎となって彼女へ飛び込んだ。背骨が反り、額から角が生える。指の爪が黒く伸び、影が王冠の形になる。
頭の中へ、千人の真名と支払日が流れ込む。誰が何を望み、何を差し出したか、すべて分かる。
オルザムの身体は灰になった。
床へ落ちた最初の契約書には、新しい主の名が浮かぶ。
《オルザム》
キルネの名ではない。悪魔を殺した瞬間、真名まで相続したのだ。ベシアが彼女を呼ぶ。
「キルネ」
その音は遠い。代わりに《オルザム》と書かれたすべての契約が、彼女の血へ返事をする。
「命じて」と千の声が囁く。「取り立てて」
キルネは一枚目をつかんだ。村が雨と引き換えに百人の寿命を差し出した契約。破ろうとすると、紙ではなく自分の皮膚が裂けた。
それでも破る。
二枚目、三枚目。角が伸び、血が黒くなる。契約を破るたび、相続した悪魔の力が身体へ定着していく。だが遠い村々では、首の印が一つずつ消えていった。
夜明けまでに千枚すべてを裂いた。
玉座の間には紙片と血が積もり、鎖は一本も残らない。
ベシアが近づくと、玉座の前に立つものが振り返った。翼、角、金の瞳。声はオルザムそのものだった。
「皆は自由になった」
「あなたは?」
答えようとして、彼女は自分の元の名を探した。
契約書には一文字も残っていない。記憶の中でも、キルネという音だけが焼け落ちていた。
「私は、次の契約主だ」
悪魔王は死に、すべての契約は消えた。
ただ一人、自由にならなかった者が、空になった玉座の前で新しい真名に振り向いた。