次の部屋の合鍵
城戸真琴が引っ越す朝、台所の瓶から合鍵がなくなった。
浅葱いのりと真琴は、四年間同じ部屋で暮らした。就職、失恋、転職、インフルエンザ。何度も互いの鍵を使ったが、今日でそれも終わる。そう決めたのは住所だけで、二人ではなかった。合鍵へ触れられたのは、荷物を運んだ隣室の相沢紬、退去確認に来た大家の磯崎、そして真琴本人だけだった。
「なくしたなら、鍵交換代は私が払う」
真琴はそう言ったまま、最後の箱を抱えて先に出た。
いのりは部屋を探した。玄関には赤い刺繍糸の切れ端。ごみ箱には、真琴の新居がある町の鍵店の領収書。そして冷蔵庫には、二人分のカップスープと「十八時まで捨てないで」と書かれた紙袋が残っている。
十八時、空になった部屋で紙袋を開けた。
中には、なくなった合鍵と、見覚えのない鍵が一本。どちらにも同じ赤い糸が結ばれていた。短い手紙が添えてある。
《返すだけだと、終わるみたいだったので、交換にしました》
見覚えのない方は、真琴の新居の合鍵だった。
いのりは思わず笑い、それから少し泣いた。真琴はこの一か月、「近いからいつでも会える」と繰り返していたが、新しい部屋へ遊びに来てとは一度も言わなかった。いのりも、寂しいと言えば独立を邪魔するようで、「広くなって助かる」としか返せなかった。
呼び鈴が鳴った。真琴が、段ボールの埃を髪につけて立っている。
「鍵店で、合鍵を作る理由を聞かれて」
真琴は赤くなった。
「家族ですって答えた。変だったかな」
合鍵を黙って持ち出したのは、同じ色の糸を結んでもらうため。そして手渡す勇気が出るまで、帰る理由を残すためだったという。相沢は糸を貸し、磯崎は鍵交換をしないで一日待ってくれた。
いのりは古い合鍵を真琴へ、新しい合鍵を自分の鍵束へつけた。
二人で床に座り、ぬるくなったカップスープを飲む。家具のない部屋に、最後の湯気が二つ上がった。赤い糸の鍵が触れ合い、澄んだ音を立てた。
いのりは一口飲んで言った。
「次の部屋にも、ただいまって言うね」