死亡欄の自分の名前

午前九時、諸戸創志の端末に黒い入力欄が開いた。

〈代替対象を選択してください〉

十年後の時間医療を完成させる研究者、菰田惺は九時十分に事故死する。創志は時間保険局の調整官として、十分間を二十三回戻した。

車を止めれば、落下した標識が通行人を殺した。惺を建物へ入れれば、エレベーター事故で清掃員が死んだ。事故現場を封鎖すると救急車が迂回し、別の患者が亡くなった。世界は惺一人の生存と引き換えに、必ず代替死を要求した。

成功条件は九時十分、惺が生存し、代替死亡者がゼロであること。保険局の規則では不可能だった。最後の試行を前に、端末は黒いスタイラスを差し出す。

〈代替対象を選択してください〉

創志はこれまで、空欄のまま別の方法を探した。上司、犯罪者、余命患者の名を入れようとしたこともある。だが選べば、その人を意図して殺すことになる。

最後の十分。惺が研究棟へ向かう。同じ角で配送車が滑り、創志は非常停止信号を送った。車は止まる。代わりに上空の作業機が制御を失い、落下予測線が赤く伸びた。

黒い入力欄が開く。

創志はスタイラスで、自分の氏名と職員番号を書いた。

〈登録者は時間線から消去されます。関係者の記憶、記録、成果も復元されません〉

彼が調整官になった理由も、家族との写真も、二十三回分の苦痛も消える。創志は確認を押した。

九時十分。作業機は誰もいない歩道へ落ち、惺は生きて研究棟へ入った。死亡者はゼロ。時間は戻らない。

翌朝、保険局の机が一つ余っていた。誰も使用者を思い出せず、備品係は撤去を命じた。

創志が消えたことで、彼が処理した過去の事故記録も担当者不明になった。救われた人々は理由を知らず、局は空白を事務上の誤りとして埋めた。惺の研究論文には、時間保険制度の矛盾を示す未署名の注記が残っていた。惺は見覚えのない文章を削除できず、脚注として公表した。その一行から制度廃止の議論が始まったが、最初に代価を払った者の名は、どの議事録にも載らなかった。

引き出しの奥には黒いスタイラスが一本だけ残っていた。名札の跡がある空白の机で、それは書かれるはずのない名前を待つように転がっていた。