水切り籠の青い椀
克己が父の家へ戻ったのは、朝五時だった。
会社を辞め、同棲していた部屋も出た。キャリーケース一つを引いて、行く先を考えないまま終電に乗った。父には連絡していない。
玄関の暗証番号は変わっていなかった。台所では、再婚相手の芙美が味噌汁を作っていた。
「おかえり」とは言わず、「豆腐、切って」と包丁を渡された。
克己はコートも脱がず、豆腐をさいの目にした。芙美は出汁を取り、冷蔵庫から葱を出す。父はまだ寝ている。鍋の湯気だけが、言い訳を待たずに立ち上った。
「何人分ですか」
「三人分」
「俺が来るって知ってた?」
「知らない。朝は余ったら昼に食べるから」
克己は少し安心し、少し傷ついた。
芙美と父が再婚したのは五年前。克己は式に出ず、正月にも顔を見せなかった。母を捨てた父を許せなかったし、その後に現れた人の料理を食べるのは、母を裏切るように感じた。
味噌を溶く前、芙美は火を止めた。
「濃さ、見る?」
克己は小皿で味を確かめ、味噌を半匙だけ足した。
「父さんは濃い方が好き」
「健康診断の数字は薄い方が好き」
「変わってないな」
二人で目を合わせ、声を抑えて笑った。
食卓に三つの椀を並べる。父の椀だけ少し小さい。克己は自分の椀をどれにするか迷い、欠けた青いものを選んだ。子どもの頃に使っていた椀だった。
「まだあったんだ」
「捨てる理由がなかったから」
芙美はそれ以上聞かず、キャリーケースを廊下の壁際へ移した。客間ではなく、二階の奥へ運ぼうとする。
「一晩だけです」
「階段を塞ぐと危ないから」
「自分で持ちます」
「じゃあ、食べてから」
父が起きてきた。克己を見ると口を開いたが、芙美が先に味噌汁を置いた。
「冷めるよ」
三人で食べた。父は質問を飲み込み、代わりにご飯をよそった。克己の茶碗だけ、昔と同じように少し多い。
食後、克己は鍋を洗った。芙美は二階の窓を開け、布団を干した。父は玄関脇の充電器に、使っていなかった合鍵を差しておいた。
辞めた理由も、これからのことも話していない。一晩で何かが直るとも思わない。
それでも克己は、キャリーケースを二階へ運んだ。青い椀は食器棚へ戻さず、流しの水切り籠に伏せた。
昼にも味噌汁を飲むなら、もう一度使う。