波括弧の中は神の名ではない

景都が魔法学院の地下室へ呼ばれたとき、千年前の転移門は百九十九回目の沈黙を続けていた。

発掘された起動書は完全に翻訳済みだ。教授たちは書かれたとおり詠唱し、魔石を毎回一個ずつ灰にしてきた。費やした研究費は金貨二万枚。最後の一個でも動かなければ、地下室は封鎖される。

訳文の最後には、こうある。

『門よ、波括弧・行先・波括弧へ開け』

教授たちは「波括弧」という古代神の名があると考え、荘重に唱えていた。行先も訳語のまま「目的の場所」と読む。

前世でソフトウェア翻訳をしていた景都は、原文の記号を見て息を吐いた。

『OpenGate({destination})』

景都は百九十九枚の失敗記録を見た。毎回、行先だけが違うのに、全員が同じ『行先』という語を唱えている。波括弧の中は翻訳する文章ではない。実際の値を入れる場所だ。アプリの表示文で、変数や記号を壊してはいけないのと同じだった。記号は神名ではなく、入れ替える場所を示す目印にすぎない。

景都は講義せず、黒板の訳文から『波括弧・行先・波括弧』を消した。

代わりに具体的な地名を入れる。

『門よ、王都中央広場へ開け』

「勝手な省略だ!」

魔法学部長が杖を振り上げる。

景都は最後の魔石を台座へ置いた。残り一個。失敗すれば研究は打ち切りだ。

地名を唱える。

沈黙していた環状石が青く光り、中央に朝の王都が現れた。広場の噴水の音、焼きたてパンの香り、鐘楼の七時の鐘が地下室へ流れ込む。助手が恐る恐る門をくぐり、三十秒後、噴水の水を瓶に入れて戻ってきた。

距離三百二十キロ。移動時間三十秒。魔石消費は一個で、門は安定したまま。

教授たちが次々に地名を入れる。北砦、港町、王立病院。四つの場所が一度も失敗せず開いた。長年空だった転移予定表へ、翌朝からの救急搬送と郵便便が次々に書き込まれる。

学部長は起動書の余白に書かれた百九十九個の失敗印を見下ろす。

「我々は神の名を呼んでいたのではなく……空欄を読んでいたのか」

学院長は最後の魔石代の請求書を破り、景都へ地下研究棟の鍵を渡した。

「全魔導書の記号を監査しろ。景都を魔法技術翻訳教授として採用する」

転移門の向こうで、王都の鐘が八度目を鳴らした。