注文欄にない春の皿

閉店後のレストランで、調理補助の未央は退職届を鞄に入れていた。社内の新メニュー募集に出した案へ、料理長の御厨が赤字で「再考」と書いたからだ。最後の賄いとして頼んだのは、いつものカレーだった。

ところが運ばれたのは、味噌と柑橘のソースを添えた鶏肉、春野菜、小さな豆ご飯の一皿だった。未央が応募した料理そのものだ。

作れそうなのは御厨、ホール責任者の守屋、毎週試食会に来る常連の東雲。誰も注文したとは言わない。

大根の飾り切りは、未央が弁当で作る細い三日月形。ソースには、応募用紙にしか書かなかった八朔の皮が入っている。伝票番号は「00」。客の注文ではなく、名前を伏せたスタッフ試食を示す番号だった。

「守屋さんが、試食に回したんですね」

守屋は認めた。御厨の「再考」は却下ではなく、原価を下げる方法を一緒に考えたいという意味だった。だが説明の前に、未央が応募用紙を引き上げた。御厨は自分の赤字が人を追い詰めたことに気づき、直接呼び戻そうとしたが、謝罪まで命令口調になりそうで黙った。

そこで守屋が、料理名も考案者名も伏せ、東雲を含む三人の試食へ回した。東雲は「家で待つ人を思い出す味」と評し、御厨は八朔を減らさず仕入れ先を変える案を出した。

「勝手に作って悪かった」と御厨が言う。「それと、赤字が足りなかった。『一緒に』を先に書くべきだった」

未央は退職届の角を指で押さえた。料理は採用が決まったわけではない。価格も盛りつけも、直すところが残っている。それでも、自分の皿が初めて誰かの口へ届いた。

未央は、家庭料理のようだと言われるたび、店の皿には足りないという意味だと思っていた。だが東雲の感想は、その近さこそ外で食べたい理由になると教えた。御厨の技術も守屋の段取りも必要で、未央の案だけでは完成しない。だからこそ『一緒に』の文字が欠けた赤字は痛かったのだ。今、注文欄のない伝票は、直す余地まで含めて席を空けていた。

鶏肉を一口食べる。味噌の丸みのあと、八朔の苦みが春のように残った。

未央は伝票の空欄に、料理名を書き込んだ。

「この続き、正式に注文してもいいですか」