海鳥の眠る鯖チーズ丼

 港の居酒屋を閉めたあと、海老沢灯は一人で厨房に残った。

 午前一時。客へ出せないほど身が崩れた鯖味噌が、小鉢一杯ぶん余っている。賄いにすればいいのに、店主である灯は普段、売り物にならないものだけを急いで口へ入れて終わる。

 今日も予約客、仕入れ先、従業員の希望休を順番に優先し、自分の夕食は最後になった。

 裏口を開けると、港の浮標に海鳥が一羽眠っていた。片方の翼だけ黒いので、灯は密かに片羽と呼んでいる。波に揺られても、首を背へ埋めたまま落ちない。

「上手に休むなあ」

 灯は厨房へ戻り、炊飯器の残りごはんを丼へ盛った。

 鯖味噌をほぐし、汁ごとかける。そこへ刻んだ長葱、マヨネーズを少し、ピザ用チーズをひとつかみ。オーブントースターへ入れると、味噌の甘い香りと魚の脂、焼けるチーズの匂いが混ざった。

 表面がふつふつしたところへ七味を振る。

「うちの献立には載せられないな」

 けれど、誰にも出さないからこそ好きにできる。

 匙を入れると、チーズの下から熱い鯖とごはんが現れた。味噌の甘辛さに、マヨネーズの酸味と乳の濃さが重なる。行儀のよい味ではない。だからこそ、一日の最後に残った灯の空腹へ、まっすぐ届いた。

 今日、若い従業員が新しい小鉢を提案した。灯は忙しさのあまり「今度ね」と流した。自分が店を始めた頃、同じ言葉を何度も言われたことを思い出す。

 丼を食べながら、メモ帳へ〈明日、試食する〉と書いた。大げさな反省ではない。忘れないための一行だ。

 裏口へ戻ると、片羽はまだ浮標の上にいた。灯が椅子へ座ると、潮の匂いの中に、厨房から流れる味噌とチーズの香りが混じった。

 店も港も眠っている。灯もようやく、自分の番になった。

 丼の底に残った焦げた米を、匙でこそげて食べる。波が浮標を揺らし、片羽の体も小さく上下した。それでも眠りは続いている。

 灯は空の丼を膝に置き、温かさが消えるまで、海と同じ速さで呼吸した。

 遠くで係留索が軋み、店の換気扇が惰性で回っていた。灯は片羽が目を覚ますより先に立ち上がる。指先には鯖の脂と味噌の甘い匂いが残り、それは今夜、自分へ出した最初で最後の一皿の証だった。