消えない灯り
喫茶「渡り鳥」の閉店後、杜若冴は退職届を出した。
店主の鍋島玄佐は、封筒を老眼鏡越しに眺めた。
「字が小さい」
「内容は一行です」
「辞めます、だけか」
「十二年分の思いを込めました」
「軽いな」
「紙が厚いんです」
冴は三十五歳。
美術大学を中退してこの店で働き始め、気づけば店主より上手に豆を挽き、常連の注文を覚え、壊れたトースターを蹴って直せるようになった。
来春、もう一度絵を学ぶため、遠い町の学校へ行く。
玄佐は退職届をエプロンのポケットへ入れた。
「好きにしろ」
「はい」
「代わりは探す」
「お願いします」
「送別会はしない」
「助かります」
話は終わった。
冴は椅子を上げ、床を掃き、厨房のガスを確認した。
最後に客席の照明を消す。
窓際の丸テーブルの上だけ、琥珀色のランプが残った。
スイッチを押す。
消えない。
もう一度押す。
明るいまま。
「接触不良かな」
冴が言う。
「消えないなら接触良好だろ」
玄佐が脚立を持ってきた。電球を外しても、光は天井から垂れたまま残った。
「器具ごと切る?」
「明日、電気屋を呼ぶ」
「今夜どうするんです」
「放って帰る」
玄佐が扉へ向かうと、灯りは少し強くなった。
冴は丸テーブルを見た。
十二年前、面接を受けた席だった。
履歴書の志望動機に「生活費」と書き、玄佐に笑われた。
「絵はどうした」と聞かれ、「才能がなかった」と答えた。
玄佐はそれ以上聞かず、翌日から働けと言った。
「怒ってます?」
冴が尋ねた。
「人手が減るからな」
「それだけ?」
「それ以外に何がある」
灯りがまた明るくなった。
冴は椅子へ座った。
「私、辞めていいんですよね」
「退職届を受け取った」
「言葉で」
「面倒くさい」
「十二年働いた人間に、それですか」
「十二年も居座った人間だ」
「玄佐さんが雇ったんでしょう」
二人はしばらく睨み合った。
やがて玄佐が、冷めた水を一杯置いた。
「最初に描いた看板、まだ裏にある」
冴は顔を上げた。
店名の鳥が芋虫にしか見えず、恥ずかしくて外した絵だった。
「捨ててなかったんですか」
「薪にするには厚かった」
「嘘」
「……あれより下手になってたら、帰ってくるな」
冴は笑い、目をこすった。
玄佐は丸テーブルの向かいに座った。
「行っておいで。今度は、生活費以外の理由で働け」
琥珀色の灯りが、ふっと消えた。
暗闇で冴は言った。
「送別会、してください」
「しない」
「看板、持っていきます」
「店の備品だ」
「じゃあ帰ってきたら、新しいのを描きます」
「上手くなってたらな」
二人は店を出た。
看板の上には、夜の空を渡る鳥が一羽描かれている。
冴にはもう、芋虫には見えなかった。