湯気の向こうの鍵
河原崎透が三週間ぶりにシェアハウスへ戻ると、台所の配置が変わっていた。
冷蔵庫は壁際、食卓は窓のそば。自分のマグカップがあった棚には、知らない保存瓶が並んでいる。
透は住人の荒巻朝陽と喧嘩し、友人宅を転々としていた。原因は共同経営を夢見た店の計画だった。透が資金集めを投げ出し、朝陽は「帰ってくるだけで何とかなると思うな」と怒鳴った。
今日は荷物を取りに来ただけだ。合鍵も返すつもりだった。
ところが台所では、朝陽が一人で巨大な鍋をかき回していた。
「何してる」
「味噌汁」
「量がおかしい」
「冷蔵庫を動かしたら、野菜が余った」
透は通り抜けようとしたが、床に水が広がっている。冷蔵庫の排水受けを外した際、ホースが抜けたらしい。
「雑巾、押さえて」
朝陽が言う。
「俺、もう住人じゃない」
「まだ鍵を持ってる」
「返しに来た」
「返す前に押さえろ」
透は鞄を置き、冷蔵庫の下へ腕を入れた。朝陽が本体を傾け、透がホースを差し込む。狭くて指が届かず、二人で何度も位置を変えた。
「店の話、悪かった」
透が言う。
「今するな。落とす」
「もうやらない」
「知ってる」
「何で」
「お前が逃げた翌日、物件を断った」
冷蔵庫が床へ戻る。計画は終わっていた。謝れば再開できると思っていた自分に、透は気づく。
二人で水を拭き、食材を棚へ戻した。透の名前が書かれた豆腐が一丁、賞味期限切れで残っている。
「捨てろよ」
「当番じゃない」
「三週間も」
「来るかもしれないだろ」
朝陽は豆腐を捨て、新しいものを味噌汁へ入れた。味見用の椀を透へ渡す。
「薄い」
「味噌」
「右の棚」
「配置を知ってるなら取れ」
住人たちが起きてきて、食卓へ座った。誰も透の不在を責めず、店の計画も聞かなかった。朝陽は人数分の椀を並べ、最後に一つ足した。
食後、透は自室へ向かった。机はなくなっていたが、布団は畳まれ、壁際に置かれている。棚の中には空きが一段あった。
玄関へ戻り、合鍵を靴箱の上へ置く。朝陽は見ても何も言わず、濡れた雑巾を洗っていた。
透は靴を履き、扉を開ける。外へ出たところで、自転車の鍵を忘れたことに気づいた。戻ると、合鍵はもう靴箱になかった。
朝陽が台所から投げる。透は受け取り、キーホルダーごとポケットへ入れた。
「今夜、布団を敷く」
透が言う。
朝陽は鍋に蓋をし、残った味噌汁を冷蔵庫へしまった。保存容器には日付だけを書き、名前の欄を空けた。