灯りを消す係

 宇佐見琴葉は、眠る直前まで外国語を日本語へ運んでいる。

 昼に届いた文章を夜へ送り、夜に届いた文章を朝までに返す。フリーランスの翻訳者になって五年、机のランプだけが、毎晩同じ時刻に彼女を見ていた。

 老いた白茶の猫は、その灯りを目印に来たらしい。

 夏の終わり、二階のベランダへ隣家の塀から渡ってきて、開いていた窓の前に座った。痩せてはいたが慌てる様子もなく、部屋を一周すると、机のランプの下で眠った。

「そこ、辞書を置く場所なんだけど」

 猫は片目も開けなかった。

 迷い猫の届けを出し、近所を探したが、飼い主は見つからない。光の輪の中で、尾だけ細く伸ばして眠るので「灯芯」と名づけた。

 灯芯は夜更かしに厳しかった。

 午前零時までは、ランプのそばで静かにしている。零時半になると辞書へ顎を置く。一時にはキーボードの前へ座り、二時を過ぎると、琴葉の手首へ前足を重ねた。

「締切があるの」

 灯芯は目を細める。

「あと三頁」

 尾が画面を横切る。

「この一文だけ」

 猫はその一文の上へ前足を置いた。

 琴葉はいつも、自分の訳が足りない気がしていた。

 もっと自然な言葉がある。もっと正確に伝えられる。そう思って読み返すうち、朝になった。灯芯をどけてまで続けた夜は、翌日かえって誤字が増えた。

 ある仕事で、「火を消して休みなさい」という台詞を訳した。

 簡単な一文なのに、琴葉は「休む」「眠る」「体を横たえる」と候補を並べ、決められずにいた。

 灯芯がランプのスイッチへ頬を押しつけた。

 偶然、灯りが消えた。

 暗闇の中で、パソコンの画面だけが青く残る。

 琴葉は初めて、その光が冷たいことに気づいた。保存を押し、画面も閉じる。

「分かった。今日はここまで」

 灯芯を抱くと、猫は肩へ顔を埋め、深く息を吐いた。

 翌朝、窓から入る光の中で読み直すと、答えはすぐ決まった。

〈灯りを消して、おやすみ〉

 それで十分だった。

 灯芯は正式に琴葉の家の猫になった。古い猫用ベッドを買ったが、夜は相変わらず机へ来る。

 零時を過ぎると、琴葉は自分からランプを消す。暗くなった部屋を、猫と一緒に寝室まで歩く。

 枕元では、灯芯の毛から日に干した紙のような匂いがする。遠くの車の音、冷めた珈琲、閉じた辞書。

 言葉を運ばない時間にも、夜はちゃんと意味を持っていた。琴葉は猫の背へ手を置き、その温度を訳さないまま眠った。