無料診療所の娘
霞野辺こよりの昼食は、塩むすび二つだった。
制服も姉からのお下がりで、休日は駅裏の小さな診療所を手伝っている。三笠結莉は、医者にも行けない家の子だと勘違いした。
「診療所で雑用して、治療費をまけてもらってるの?」
こよりは「手伝うと喜ばれるから」と答えた。診療所では患者から一円も受け取らなかった。
学校へ新しい保健棟を建てる計画が持ち上がり、寄付者を招いた式典が開かれた。結莉の父は医療機器会社の支店長で、娘は自分の家が主賓だと思っていた。
ところが壇上へ呼ばれたのは、こよりだった。
霞野辺家は、地域の総合病院、介護施設、製薬研究所を運営する医療法人の創業家だった。駅裏の小さな診療所もその一つで、所得にかかわらず無料で診察する場所。こよりの母が法人理事長、父が病院長だった。
家族は役員報酬を必要最低限に抑え、広告も豪華な院長室も作らない。その資金で、診療所と子どもの医療費を支えていた。こよりが握ってきた塩むすびも、夜勤者と患者家族へ配る食事と同じものだった。
理事長が保健棟の設計を発表する。
建設費三十億円は霞野辺財団が負担し、地域住民も使える夜間診療室を設ける。こよりは高校生委員として、車椅子動線と相談室の配置を提案していた。
結莉は小声で言った。
「でも、あの診療所、古くてみすぼらしいじゃない」
そのとき市長が、診療所の隣へ新病棟を建てる許可証を渡した。土地も周辺一帯も霞野辺家の所有で、古い建物は文化財として保存し、最新施設とつなぐ計画だった。
さらに結莉の父の会社は、保健棟へ不要な機器を高額で売ろうとしたため、入札から外された。
こよりは塩むすびを一つ、市長へ差し出した。
「診療所では、誰に出すときも同じ味です」
市長が新保健棟の礎石を除幕する。そこには〈霞野辺こより提案・すべての人に同じ入口を〉と刻まれていた。
その文字が現れた瞬間、結莉が貧しい雑用係だと思っていた少女は、地域の命を支える病院群の後継者として、誰より大きな入口を開いた。