無音盤の一行

津々見杏は、家族会議で黙る準備をしていた。

祖母の家を売る話だ。母も叔父も賛成している。杏だけが、あの小さな家で子ども向けの読書室を開きたいと思っていた。改修費の見積もりも、運営計画も作ったのに、笑われる場面を想像すると、資料を鞄から出せない。

会議まで一時間あり、杏は「SIDE ZERO」へ入った。

店の奥に、古い録音機と、未使用の小さなアセテート盤が一枚置かれていた。商品札には〈音声一分・一回録音〉。昔、声の手紙を作るために使われたものらしい。

「録り直しはできますか」

店主は首を横へ振った。

「溝を切るので、一度だけです」

杏は買うつもりで代金を払った。店主は釣銭を数え、録音申込書へ時刻を書き、盤の中央に白いラベルを貼る。マイクを杏の前へ向けたあと、録音スイッチには触れずに待った。

何を吹き込むか決めていなかった。

祖母への思いを話せば一分では足りない。家族を説得する演説も作れない。杏が黙っているあいだ、店主は急かさず、カッティング針の温度計だけを確認した。針が適温になると、赤いランプの横へ指を置く。

杏は鞄から資料を出した。

最初のページに、必要な一文がすでに書いてあった。

「お願いします」

店主がスイッチを入れる。盤が回り、針が外側から細い溝を刻み始めた。

杏はマイクへ言った。

「私は、祖母の家を三か月借りたいです。改修費は自分で用意します。その計画を、今日、最後まで聞いてください」

十四秒だった。

残り時間を示すランプはまだ長く点いていたが、杏は続けなかった。店主も何か足すよう促さない。無音の溝が、言葉のあとに円を描いていく。

一分になると、店主は針を上げた。盤を冷まし、白いラベルへ録音日だけを押す。内容の題名は空欄のまま、硬い紙箱に収め、封はしなかった。

杏は店を出る前に、家族のグループへ資料を送信した。

〈会議で十四秒だけ、先に話します〉と添える。

紙箱の中には、たった一行と、長い無音が刻まれている。

杏はそれを鞄のいちばん上へ入れ、家族会議の扉を、自分の手で開けた。