照り焼きを残さない日
皆川蕗は、母の弁当店の裏口で照り焼き丼を食べていた。採用面接へ行くと言えず、仕入れ先との打ち合わせだと嘘をついて出てきた帰りだった。鞄には、遠い町の出版社から届いた内定通知が入っている。
母は十年前に父を亡くしてから、一人で店を守った。蕗は大学卒業後に手伝い始め、いつか継ぐものだと周囲も本人も思っていた。けれど、注文票より原稿を読みたい気持ちは消えなかった。店を離れれば、母はまた一人になる。育ててもらった恩を、忙しい時間帯に置き去りにするようで言えなかった。
照り焼き丼は、店でいちばん売れる商品だ。蓋を開けると醤油と砂糖の香りがし、鶏肉の表面は冷めても少し粘った。蕗は子どものころから、最後の一切れを残して母へ渡していた。母は「味見」と言って食べたが、本当は自分の昼を後回しにしていたのだと、働き始めてから知った。
今日も四切れのうち三切れを食べ、最後の一つを右上へ残した。これを持ち帰れば、母はいつものように笑って食べる。内定通知を隠したまま、明日も店へ立てる。
蕗は最後の一切れを箸で持ち上げた。照りが光り、端からたれが一滴落ちた。母のために残すことと、母の人生を理由に自分が残ることが、同じ仕草に見えた。
一口で食べる。肉は少し固く、奥歯で二度噛んだ。母へ渡す分がなくなっても、弁当店から照り焼きが消えるわけではない。母は自分の昼を、自分で取らなければならない。蕗も同じだった。
空の丼を洗わず、内定通知を底へ敷く。たれの跡が紙の端についた。きれいな報告ではなくていい。
店へ戻り、母の作業台に丼を置く。いつもの一切れは入っていない。代わりに、封筒の宛名が見えるよう蓋をずらした。
内定を受ければ、繁忙日の穴はすぐには埋まらない。母が怒る理由も、困る理由も本物だ。それでも、困らせない娘でいることを仕事にしてしまえば、いつか店ごと嫌いになる。蕗は好きな照り焼きの味を、義務の味へ変える前に離れたかった。
蕗はエプロンを着けず、夕方の注文が鳴り始める前に、母の向かいへ座った。