玄関で靴紐を結ぶ
史帆は靴紐を、たいていエレベーターの中で結ぶ。片足を壁へ上げ、閉まる扉に肩を挟みながら蝶結びを作る。イベント会社の仕事では、急いでいる人ほど頼られる。休日の出社も「ついでです」と笑って引き受けた。代休の申請欄には未消化の日が並び、同僚からは「史帆なら早い」と仕事が集まる。その言葉を期待だと思えば、足の痛みも見ないで済んだ。
日曜の朝、また片方を引きずって廊下へ出ると、隣室のアミナが植木鉢を並べていた。チュニジアから来た料理人で、細い鉢にミントやコリアンダーを育てている。
「史帆さん、家を出るのは、ドアを閉めた時ですか。靴紐を結んだ時ですか?」
「会社に着いた時かもしれません」
アミナは土のついた指で、玄関の小さな腰掛けを指した。
「明日は座って、両方を結んでからドアに触る。それまで、行き先を決めない」
「もう会社に決まってます」
「では、結んだあとも同じか、見てください」
月曜ではなく、次の日曜。史帆は代休のはずだったが、前夜に上司から「少しだけ来られる?」とメッセージが届いた。いつものように、行けます、と返してある。
朝八時、彼女は鞄を肩にかけ、片方だけ履いたままドアノブへ手を伸ばした。昨夜は会社へ行く前提で目覚ましをかけ、朝食も取らなかった。身体のほうが先に休日を明け渡していた。
腰掛けが目に入る。
史帆は座った。右の紐をほどき、結び直す。左も同じ長さに揃える。十数秒しかかからない。けれどその間、鞄の中で社員証が硬く背中へ当たり、窓の外では子どもが自転車のベルを鳴らした。
今日は代休だった。
史帆は上司との画面を開く。「向かっています」と打つ代わりに、昨夜の返事を読み返す。少しだけ、の終わる時刻は書かれていない。
〈今日は代休を取ります。必要な確認は月曜に対応します〉
送信したあとも、靴はきちんと結ばれていた。史帆は社員証を鞄から出して玄関の棚へ置く。
ドアを開ける。駅は右、川沿いの朝市は左だった。史帆は鍵をかけ、結び目を踏まない足取りで左へ曲がった。