王冠の下の空白欄

戴冠前夜の大夜会で、モルガード王太子は王冠の影から宣言した。

「戦災復興基金十万金貨を横領したエヴァンジェリンとの婚約を破棄する。彼女は王妃の座を得る前に、国庫を私物化した」

広間の中央へ、復興基金の設立契約書が運ばれた。資金管理者欄にはエヴァンジェリンの名があり、支出後の残高は零と記されている。

壁際では、彼女を妃教育で泣かせた者たちまで、当然の結末だという顔をしていた。

彼女は一度だけ目を伏せた。泣くためではない。十年間、自分が王妃になる未来しか許されなかった時間へ別れを告げるためだった。

「殿下は、この契約書によって私を告発なさるのですね」

「王冠の前で断言する」

列席していた帝国皇弟レグルスが、契約書を手に取った。彼はエヴァンジェリンを庇う言葉を口にせず、王冠印の直下を指でなぞった。

国際復興基金の契約は、王位継承者と管理者の二名が署名して初めて発効する。署名がそろえば文字は金色に変わり、資金は管理者口座へ移る。

だが王冠の下、継承者署名欄は空白だった。

契約は一度も発効していない。エヴァンジェリンには、一枚の銅貨さえ渡っていなかった。

空白欄の横には、未発効時の返還先が記されている。

――王太子裁量費。

基金を吸い込んだのは、契約へ署名せず放置したモルガード自身だった。

「形式上の不備だ」と彼は言う。「即位後に署名すれば済む。婚約破棄も撤回する。お前は予定どおり王妃になれ」

「空白だったのは、署名欄だけではございません」

エヴァンジェリンは王太子を見た。

「私の意思も、ずっと空白のまま扱われていました」

婚約指輪を抜き、未署名欄へ置く。

「ですから今、初めて自分で記入いたします。答えは、否です」

モルガードが名を呼んだが、彼女はもう振り返らなかった。

レグルスは夜会の出口で、帝国復興院の印章を持たず、空の手だけを差し出していた。肩書も未来も、彼女が選んだ後で決めるための手だった。

エヴァンジェリンは王冠に背を向け、自分の名を取り戻すように、その手を取った。