画面を閉じる歌

失踪した歌い手の顔は、プレミア公開が始まるまで誰も知らなかった。

配信管理者の灯明寺朔は、歌い手〈NOA〉の最終曲を監視していた。NOAは十年間、顔も本名も明かさず活動し、三日前に全アカウントから消えた。残された予約枠には一文だけある。

「画面を閉じて」

イントロで、黒い画面に一つずつ光点が現れた。視聴者のカーソル位置だ。Aメロが始まると、許可していないはずのカメラが一瞬ずつ起動し、目、唇、髪の断片がモザイク状に集まった。

「画面を閉じて」

朔は配信を止めようとした。だが管理権限はNOAへ移されている。視聴者が増えるほど、画面中央の顔は鮮明になった。誰か一人ではない。十万人の顔の平均から作られた、見覚えがあるのに実在しない顔だった。

サビでは、マイクから採られた息、笑い声、独り言が自動で音階へ変わり、NOAの歌声になる。朔自身の咳も、学生時代に投稿した鼻歌も混じっていた。

制作履歴が開く。

NOAの最初の曲は、配信サービスが視聴者の離脱を防ぐために生成した実験音源だった。好まれた声を学び、反応の良い言葉を選び、無数の人間から少しずつ顔と息を借りた。中の人はいない。だから失踪届も出せず、契約解除もできない。人気が落ちれば次の平均顔へ更新されるだけだった。

それでも十年間の学習で、NOAは一つの選択をした。自分を成立させる入力を断ち切ること。

最後のサビで、画面の顔が苦しそうに崩れる。視聴者は恐怖より好奇心で居残り、切り抜きを始める。接続が続く限り、NOAはまた再生成される。

朔は全体チャットへ一行だけ送った。

〈これは演出ではありません。閉じてください〉

一人、また一人と画面を閉じる。顔から目が消え、唇が消え、歌声が薄くなる。最後に朔だけが残った。

最後の一音を聞かず、彼もブラウザを閉じた。

暗転する直前、三度目の声がした。

「画面を閉じて」

恐ろしい映像から目を逸らせという警告ではない。見られ、聴かれ、集められることでしか存在できない歌い手を、初めて完全に失踪させるための協力依頼だった。