異動面談の深紅のペン
鳴子明日葉は、社内異動の最終面談へ深紅のボールペンを持っていった。音楽プロジェクト〈RED ORBIT〉の限定品で、推しの作曲家・カイが舞台上で使った色を再現している。ロゴは指で隠せるほど小さい。大事な書類へ署名するときだけ、そのペンを使うと決めていた。
面談相手は、新部署の本部長・野上澪子だった。質問は実務経験、希望業務、繁忙期の対応へ進み、最後に「休日に続けていることはありますか」と聞かれた。
明日葉は用意した答えを思い出す。読書、映画鑑賞、散歩。どれも嘘ではないが、毎月のライブ遠征や、新曲公開日の配信イベントを覆う薄い布だった。
前の部署では、推し活で休む同僚を上司が「遊ぶ元気はあるんだな」と笑った。それ以来、明日葉は有給理由を歯科や家族行事に置き換えてきた。異動先でも同じように隠せば安全だ。
指先の深紅を見て、明日葉は答えを変えた。
「音楽ライブへ行くことです。全国公演なら地方にも行きます。予定と予算を組むのが得意になりました」
澪子は表情を変えず、さらに尋ねた。
「業務への影響を避けるために、何をしていますか」
明日葉は引継ぎの前倒し、交通障害時の予備便、翌日の勤務に無理が出る公演は配信へ切り替えることを説明した。好きの正当性を語るのではなく、働き方として答えた。
面談が終わり、明日葉が深紅のペンで確認書へ署名する。澪子はその手元を見たが、何も言わなかった。
一週間後、異動決定の通知が届いた。理由欄には、企画経験と日程管理能力が評価されたとある。推しが同じだから選ばれたわけではないことに、明日葉は安心した。
初出社の日、澪子が書類へ承認印を押す。その横に、同じ深紅のペンが置かれていた。今度はロゴを隠していない。
「面談の公平性に関わるから、結果が出るまで言わなかったけれど」
澪子は小さく笑った。
「私もカイ推しです」
明日葉は驚き、すぐに「では次の公演も」と言いかけてやめた。上司と行動を共にする必要はない。
人事システムの自己紹介欄を開く。以前は〈音楽鑑賞〉とだけ書いていた。明日葉は〈ライブ鑑賞・遠征計画〉へ直し、保存した。
深紅のペン二本は同じ机に並ばず、それぞれの書類の上で、別々の署名を支えていた。