発信者は存在しません
午前三時ちょうど、時間通信研究所の靭矢聖司へ、自分の番号から電話が来た。
『電話を切れ。警報を聞け』
受話口の向こうでも同じ非常灯が回っている。二十秒後、実験槽から漏れた可燃ガスに通話端末の接点が火花を飛ばし、研究棟が爆発した。
白い光が消えると、また三時。自分からの着信。机には銀色の職員証。
八人の研究員を防火区画の外へ出し、人数表示をゼロにする。それが反復の出口だった。
聖司が「逃げろ」と叫べば、全員が同じ出口へ走り、開いた扉から酸素が流れ込んだ。
実験槽の弁を閉じると、遠隔操作信号が通話と干渉し、弁は逆に開いた。
端末を床へ叩きつけても、着信は館内放送へ移り、聖司自身の声が響いた。
『電話を切れ。警報を聞け』
警報は着信音の陰で、ずっと別の指示を出していた。〈端末を使用せず、北側気密室へ退避〉。研究員たちが聞き逃す原因は、未来の聖司が送る警告だった。
ならば未来から電話をしなければよい。しかし時間通信装置は、生存した主任の脳波を自動複製し、事故二十秒前へ警告を送る。聖司が生きて職員登録を保つ限り、装置は必ず彼を発信者にする。
停止方法は一つ。時間台帳から聖司の個人鍵を完全消去すること。この時代、人は顔と関係の照合を記憶補助端末へ預け、端末は睡眠中に記憶の索引まで補正する。台帳は研究所だけでなく、行政、銀行、医療、家族の端末まで同期している。消せば法的記録だけではない。彼と結びついた電子記憶から、顔も声も関係も失われる。
次の着信で、聖司は未来の自分へ言った。
「もう電話しなくていい」
個人鍵の削除を承認し、銀色の職員証を読取機へ置く。画面の名前が一文字ずつ白紙になる。
着信が途切れた。
静寂の中で、本来の警報が聞こえた。研究員たちは北側気密室へ走る。聖司も最後尾で扉を越え、人数表示はゼロになった。二十秒を過ぎても爆発しない。
同僚が振り返った。
「あなた、どこの人ですか」
聖司の職員証には写真だけが残り、氏名欄は〈登録なし〉。携帯の連絡先も、口座も、住民記録も空だった。母へ電話すると、知らない男の声を警戒して切られた。
夜明け、聖司は研究所の門を出た。守衛は来訪者名簿への記入を求める。
彼はペンを持ったまま止まる。もう証明できる名前はない。
それでも三時一分の時計だけは進んでいた。聖司は空欄のまま名簿を閉じ、誰にも呼ばれない朝へ歩き出した。