白紙から選ぶ

六角怜司は五十二歳で、自分の人生をすべて削除した。

病気でも刑罰でもない。「全履歴放棄制度」を利用した、自発的な生まれ直しだった。仕事に成功し、家を持ち、表向きは何も不足していなかったが、怜司は過去の選択に押し潰され、これ以上その続きとして生きられないと申請書に書いた。

目覚めた怜司は、言葉も常識も使えた。だが、自分の顔にも名前にも親しみがなかった。

部屋には、施術前の自分が用意した十二個の箱があった。

〈仕事〉

〈結婚〉

〈裏切り〉

〈最も誇ったこと〉

〈最も恥じたこと〉

〈娘〉

担当者は、一週間に一箱ずつ開ければ穏やかに人格を再接続できると説明した。

怜司は最初の箱を開けなかった。

知らない過去を順番に読み込めば、結局、以前の自分が設計した人間になる。彼は箱を三つ捨て、二つ燃やした。仕事も財産も手放し、海辺の町で清掃員として働き始めた。早起きが得意で、細かい汚れを見逃せず、人へ指示するときだけ声が冷たくなる。理由は分からなかった。

半年後、残った箱は〈娘〉だけになった。

中には写真ではなく、一通の手紙があった。

〈お父さんへ。私を忘れるのはあなたの権利かもしれない。でも、忘れたから何もなかったことになると思わないでください。会うかどうかは、新しいあなたが決めてください。私は一度だけ待ちます〉

住所と日時が書かれていた。待ち合わせは翌日だった。

怜司は逃げたくなった。手紙の相手に愛情はない。罪悪感もない。完全に知らない人だった。だから会わない選択も、新しい人生の自由に思えた。

それでも翌日、指定された公園へ行った。

ベンチに二十代の女性が座っていた。怜司を見ると立ち上がったが、抱きつきもしなければ泣きもしなかった。

「本当に、何も覚えてない?」

「はい」

「私を捨てたことも?」

怜司は答えを失った。過去の自分の罪を、記憶のない自分が謝るのは嘘に思えた。だが、目の前の人の傷は今も存在している。

「覚えていません。だから無実だとも思いません。教えてもらえるなら、聞きたいです」

女性は長い間黙り、それから紙袋を差し出した。中にはメロンパンが入っていた。

「あなた、これが嫌いだった」

怜司は一口食べ、顔をしかめた。女性が初めて笑った。

二人はその日、過去のすべてを話さなかった。次に会う約束だけをした。

帰宅した怜司は、新しい日記を開いた。

〈私の最初の記憶。公園へ行った。許されたわけではない。ただ、行かなかった自分にはならずに済んだ〉

人生は白紙にはならなかった。

消した人にも、残された人のページが続いている。

怜司はそこへ、記憶ではなく選択で戻ることにした。