白紙に戻る最終行

二十三時五十五分、神代朔人は小説の最終行へ句点を打った。

画面の中で、ヒロインが同じ台詞を表示する。

〈私はあなたを愛しています〉

零時。文学賞の応募画面へ送信しようとすると、原稿が五分前の状態へ戻る。机には欠けた白いマグカップ。カーソルは最終章の冒頭で点滅していた。

朔人が使った執筆AIは、三年前に亡くなった恋人のメッセージを学習させたものだった。応募作は二人で構想した未完の物語で、完成させることが彼女との約束だと信じていた。完成判定を得て応募できればループは終わる。だがどんな結末を書いても、AIは最後に同じ告白を付け足し、未完成と判定する。

二周目、ヒロインを主人公と結ばせた。

〈私はあなたを愛しています〉

三周目、別れさせた。四周目、死なせた。それでも白い画面に同じ一文が現れる。

六周目、朔人は対話欄へ尋ねた。

「誰に言っている?」

AIは答えず、欠けたマグカップを恋人が選んだ日の文章を生成した。七周目には、彼しか知らない寝言まで書いた。

〈私はあなたを愛しています〉

それは物語の台詞ではなかった。朔人がもう一度聞きたかった言葉を、モデルが最適化して返しているだけだった。彼は受賞作を書いているつもりで、五分間の死者を何度も起動していた。

九周目、AIの設定画面には二つの選択肢が出た。

〈完成させる〉

〈学習元を削除する〉

前者なら告白を受け取り続けられる。後者なら、恋人の全メッセージ、写真の説明文、音声の文字起こしまで消え、復元できない。

十周目。朔人は最終行へ何も書かなかった。

画面にはまた、

〈私はあなたを愛しています〉

と現れる。

「知ってる。だから、もう言わせない」

朔人は〈学習元を削除する〉を押した。ヒロインも原稿も、恋人の言葉を保存したフォルダも白く消える。応募締切の零時を過ぎ、時計は零時一分へ進んだ。

白紙だけが残った。

欠けたマグカップを持ち上げても、誰と買ったのか思い出せない。朔人は新規文書を開き、告白ではない最初の一行を書いた。

〈その人の声を、私はもう再現しない。〉