白紙を渡す日
新人の里朱が退職届を出した午後、菫は引き出しから一冊の白いノートを出した。
引き留めるためではない。
自分が高校を去る日に、同じものを渡されたことを思い出したからだ。
菫と里朱ではなく、当時の相手はすみれ色の髪留めをしていた親友だった。二人は三年間、交換日記を続けた。恋の話、家の愚痴、進路の迷い。最後の冊子は卒業式までに半分しか埋まらなかった。
菫は県外の大学へ、親友は家業を継ぐため地元へ残った。
卒業式の帰り、靴箱の前で親友は日記を閉じた。
「残り、書けないね」
菫が言うと、彼女は首を振った。
「書けないんじゃなくて、もう毎日渡せないだけ」
そして新品の白いノートを一冊くれた。
「これは交換しなくていい。菫が自分に返す日記にして」
菫は寂しかった。交換しない日記など意味がないと思った。大学へ行ってからも数頁だけ書き、忙しさを理由にやめた。
親友とは今も年に一度会う。昔と同じではない。互いの知らない友人や仕事があり、会えない年もある。返事を三日忘れることもある。それでも関係が消えたわけではなかった。毎日渡さなくても、続くものは続いた。
里朱は仕事が嫌いなのではない。家族の介護で故郷へ戻るのだと話した。「皆さんに迷惑をかける」と何度も謝った。
菫は、若いころの自分なら「落ち着いたら戻っておいで」と言っただろう。未来を約束することで、別れを薄めようとしたはずだ。
白いノートを里朱へ差し出す。
「返さなくていいよ」
「交換日記ですか」
「ううん。書いても、書かなくてもいいノート」
最初の頁にだけ、菫は記した。
〈辞めた日のあなたも、これからのあなたの一部です〉
里朱は泣かずに笑い、ノートを鞄へ入れた。
退勤後、菫も自分の白い日記を開く。止まっていた頁の次に、今日の日付を書く。
人に渡せなかった言葉も、過去へ返せなかった気持ちも、白紙なら受け止められる。
菫は一行目に、〈見送ることができた〉と書いた。
そして次の頁を、何も書かずに残した。