百合根の中の冬

阿久津蒼志の鞄には、開けていない封筒が一通入っていた。

差出人は、故郷の町役場。海辺の旧診療所を改装し、仕事場と図書室を兼ねた施設を作る。その運営責任者に応募しないか、と高校時代の恩師が知らせてきた。

蒼志は東京で広告制作をしている。忙しいが、仕事は嫌いではない。故郷へ戻れば、病気の母の近くにいられる。一方で、戻ることを「親のため」にすれば、うまくいかなかったとき母を恨むかもしれない。

封筒には募集要項と、恩師の手紙が入っているらしい。届いて十日、蒼志は中身を想像するだけで、封を切れなかった。

二月の夜、彼は馴染みの居酒屋へ入った。店内に客は一人。店主が「百合根まんじゅうの蟹餡、今季は今日までです」と言った。

白いまんじゅうへ透明な餡がかかり、湯気の中に蟹と生姜の淡い匂いが立つ。箸を当てると表面は柔らかく沈み、餡がとろりと皿へ流れた。

蒼志は一口分を急いで切った。

「中、まだ熱いですよ」

店主の声と同時に、割れ目から濃い湯気が上がった。

百合根は滑らかに潰されているが、小さな鱗片がところどころ残っていた。口へ入れると、外側の餡はほどよい温度なのに、中心は舌を引くほど熱い。蟹の塩気のあとから、百合根の静かな甘さが出てくる。

戻るか、残るか。今夜決める必要はない。けれど、中身を見ずに悩み続けるのは、選んでいるのではなく、封筒に選ばせているだけだった。

蒼志は鞄から封筒を出した。店主に鋏を借りず、指で端を開く。募集要項の勤務条件は、想像より現実的で、給料は今より低かった。恩師の手紙には、母のことは一行もなく、〈町に戻る理由ではなく、ここでやりたいことがあるなら考えてほしい〉とあった。

蒼志は応募用紙を持ち帰ることにした。出すとは決めない。翌朝、上司へ地方勤務の制度があるか聞き、夜に恩師へ仕事内容を確認する。それだけを予定表へ入れた。

百合根まんじゅうの中心は、まだ少し熱かった。蒼志は水を飲まず、蟹餡に残る生姜の香りと、冬の根の甘さが一緒に冷めていくのを待った。