知らない家の軒先で
岩倉野颯は、自転車で町外れを走っている途中、急な雨に降られた。
周囲に店も駅もなく、古い木造家屋の軒先へ一時だけ入った。
勝手に立つのは気が引けたが、雨はすぐ道路を白くした。
引き戸が開き、家の主人らしい女性が顔を出した。
「そこで濡れるなら、縁側へ上がれば」
「すみません。雨が弱くなったらすぐ」
「雨に言っておきます」
女性は古いタオルを渡した。
颯は縁側の端へ座った。
庭には紫蘇と茄子が植えられ、雨粒が葉を大きく揺らしている。
女性は湯を沸かし、焙じ茶を二つ持ってきた。
「知らない人を家へ入れて大丈夫ですか」
「靴を履いたままの泥棒は少ないでしょう」
「僕、縁側までです」
「なら、半分安全」
颯は笑い、湯呑みを受け取った。
茶には炒った葉の香りがあり、タオルからは日に干した布の匂いがした。
「どこまで行くの」
「川上の町まで」
「用事?」
「特に。休みなので、遠くまで走ってみようと思って」
「雨で失敗?」
「少し」
女性は庭を見た。
「茄子は喜んでる。あなたは茶を飲んでる。全部が失敗ではないね」
雨宿りの間、二人はこの町の坂道や、川沿いの古い橋の話をした。
女性は近道を教えたが、雨上がりは滑るから遠回りの方がよいとも言った。
「近道なのに薦めないんですね」
「道は短さだけで選ばないでしょう」
颯は仕事で、結果が早く出る方ばかり選んでいた。
休日の自転車まで、走行距離と平均速度を記録している。
けれど今日は、知らない家の縁側で二十分止まった。
その時間は記録アプリでは「停止」と表示されるだろう。
雨が弱まり、庭の向こうへ明るい空が見えた。
女性は新聞紙へ紫蘇の葉を数枚包み、颯へ渡した。
「帰ったら、素麺へ」
「お礼は?」
「次に誰かが軒先へ来たら、雨宿りさせて」
颯は自転車へ戻った。
名前を訊き忘れたことに気づいたが、引き返さなかった。
知らないままでも、縁側の温度は薄れない。
遠回りの道を選ぶと、川沿いには雨上がりの霧が立っていた。
濡れた土、焙じ茶、新聞紙の中の紫蘇の香り。
記録アプリを停止したまま、颯はゆっくりペダルを踏んだ。
目的地へ着く前に、今日の休日はもう十分な場所へ届いていた。