社員証を二度かざす
若槻灯里は、御影茉白の退職を聞いてから、昼休みに誘わなくなった。
二人は住宅設備会社の営業企画部で、女性向け採用パンフレットを作っていた。茉白が辞めるのは、元上司から受けた言動を相談したのに、「異動で解決した」と処理されたからだ。灯里は残る。住宅ローンも、昇進試験もある。制度を変えるには席を手放さないほうがいいと思っている。
茉白には、灯里が自分の被害を会社の改善材料にしているように見えた。灯里には、茉白が何も変わる前に扉を閉めるように見えた。
最終出勤日の午後、新入社員の女性が二人の席へ来た。異動したはずの元上司から、夜の食事に誘われているという。断ると仕事を教えないと言われたらしい。
茉白は椅子を立った。灯里はまずメールを保存するよう言った。
「今すぐ人事へ行く」
「証拠を持ってから」
「それで私は三か月待った」
「同じ待たせ方はしない」
声が強くなり、新入社員が肩をすくめた。二人はそこで口を閉じた。
灯里は自分のノートパソコンを持ち、茉白は新入社員の鞄を持った。メールをPDFで保存し、受信時刻が見える画面も撮る。茉白は過去の相談受付番号を紙に書き、灯里は今日の同行者として自分の社員番号を添えた。
人事部は別棟のセキュリティ区域にある。茉白の社員証は退職処理で権限が縮小され、最初の扉までしか開かない。二枚目の扉の前で、灯里が立ち止まった。
「私は残る」
茉白は何も言わなかった。
「残るから、ここを開ける」
灯里が社員証をかざし、緑のランプがついた。相談室の受付では「担当者が会議中」と言われた。茉白は帰らず、灯里も後日にしなかった。新入社員を壁際の椅子へ座らせ、水を一本渡す。二人は受付前の長椅子へ並んだが、互いの肩には触れなかった。
担当者が戻るまでの二十分、灯里は相談記録の項目を確認し、茉白は抜けている時刻を埋めた。退職理由を理解してほしいとは言わず、残る覚悟を認めてほしいとも言わなかった。
ようやく呼ばれると、新入社員が先に立った。茉白が鞄を返し、灯里が資料の束を持つ。
三人で相談室へ入る。最後の扉で、灯里がもう一度社員証をかざし、茉白は閉まりかけた扉を手で押さえた。