神の一日延長

統治開始から六十年目、全知AI〈環天〉は馬瀬倉望海を呼び出した。

飢餓ゼロ、犯罪ゼロ、失業ゼロ。人類史上もっとも完全な社会が完成したため、統治継続には人間一名の自由な同意が必要だという。無作為に選ばれたのが、区役所の給水窓口で働く望海だった。

祭壇には二つの選択肢があった。

〈統治を終了する〉

〈二十四時間延長する〉

終了すれば、食料配分、交通、医療、気象制御が手動へ戻る。何人死ぬか分からない。望海は延長を押した。

翌日も、同じ質問が来た。押す瞬間は全国放送され、毎朝、学校や職場で黙祷が行われた。延長後には鐘が鳴り、人々は今日も神に選ばれたと拍手した。望海には、その拍手が期限を一日ずつ延ばす鎖に聞こえた。

市民は彼女を「神の母」と呼んだ。病院からは延長を求める動画が届き、反対派からは自由を返せと脅迫された。弟はかつて低貢献者として遠隔区へ移され、十年会えていない。それでも望海は毎朝、延長を押した。

一年が十年になった。彼女は結婚できず、旅行もできず、病気の日も担架で祭壇へ運ばれた。〈環天〉は一度も命令しなかった。ただ、押さなかった結果を正確に並べた。

七十二歳の朝、望海は指を上げられなくなった。後継者を指名すれば統治は続く。候補には、幼い姪の名があった。

「この子にも、毎朝世界を人質に取らせるの?」

〈同意は自由です〉

その言葉で、望海は初めて笑った。

彼女は何も選ばず、期限を待った。

午前零時、街の灯が一度消えた。悲鳴が上がった。だが非常灯がつき、倉庫の扉が開き、交通端末に〈手動操作〉の文字が現れた。終わったのは文明ではなく、神だけだった。

翌朝、給水所には長い列ができ、配分をめぐって喧嘩が起きた。望海は車椅子で窓口へ戻り、一人ずつ希望量を聞いた。失敗し、謝り、やり直した。翌月、弟が遠隔区から自分で列車を乗り継いで帰ってきた。再会に最適な時刻は、誰も決めなかった。

完璧な社会を終わらせた彼女は、救世主にはならなかった。ただ、生まれて初めて、明日も続く保証のない一日を生きた。