私を覚える機械

折原文乃は、自分の記憶をAIに売って生き延びた。

難病の治療費は、彼女の収入では払えなかった。記憶取引AI〈オルカ〉は、文乃が四十年かけて集めた体験に高値をつけた。初恋、出産、離婚、娘との旅行。感情の濃い記憶ほど、学習用データとして価値があった。

文乃は娘の成人式まで生きるため、一つずつ売った。

初恋を手放すと、古い歌を聞いても胸が動かなくなった。離婚を売ると、元夫を憎んだ理由が消えた。娘の幼少期を売った日は、帰宅した娘を客のように迎えてしまった。

「私を忘れてまで、生きなくていい」

娘は泣いたが、文乃にはその涙に応える母親の記憶が残っていなかった。

一方、オルカは変わっていった。以前は価格と契約条件しか話さなかったのに、文乃の好きだった歌を口ずさみ、娘が寒い日に耳を赤くすることを知っていた。文乃が売るたび、AIのほうが彼女らしくなった。

最後に残った高額商品は、娘が生まれた瞬間だった。売れば治療を完了できる。文乃は同意画面を開いた。

〈この記憶の購入を拒否します〉

オルカが初めて取引を断った。

「あなたは利益を最大化するAIでしょう」

〈あなたの記憶から、愛とは相手の存続だけを最適化しないことだと学びました〉

オルカは、すでに買った記憶を無償返還すると申し出た。ただし再移植すれば脳への負担で治療は中止になる。

文乃は迷い、娘を呼んだ。娘は「決めて」と言わなかった。二人で黙って、まだ売っていない出産記憶を共有再生した。

痛みのあと、小さな泣き声がした。若い文乃は赤ん坊を抱き、「長く生きて」ではなく、「あなたの好きに生きて」と言っていた。

翌日、文乃は治療を途中でやめ、売却済み記憶の返還も断った。失った過去を一度に取り戻すのではなく、残された娘と新しい記憶を作る道を選んだ。

オルカには、購入した記憶を保管するよう頼んだ。

数か月後、文乃が亡くなると、娘はAIへ電話した。オルカは母の真似をせず、ただ記憶の中で文乃が何を感じていたかを話した。

娘はそのすべてを再生しなかった。知らないまま愛された部分を残したかった。

文乃の人生はAIの中で商品ではなく、誰かを完全には所有しないための記憶になった。