空室案内にない帰り道
鴨川郁美がその募集札を見つけたのは、雨の午前零時だった。
『帰れない方限定・一週間のみ・敷金礼金不要』
古い商店街の〈境井不動産〉。窓には普通の物件情報が並ぶのに、その一枚だけは通行人の目に入らないらしい。
郁美が扉を開けると、葡萄色のスーツを着た境井時生が、真鍮の方位磁針を机で回していた。針は北ではなく、郁美を指した。
「帰る場所は、売りません」
「募集札を出してますよね」
「売るとも貸すとも書いていません」
一週間前、郁美は同棲していた部屋を出た。勤務先も恋人の会社だったため、別れを告げた翌日に机がなくなった。友人宅を転々としたが、「しばらく」がいつまでか分からず、今夜は駅で朝を待つつもりだった。
時生は事情へ同情せず、方位磁針と一本の鍵だけを持って立ち上がった。
案内されたのは、二軒の建物の間にあるはずのない細い部屋だった。中には、郁美が昔安心した場所の断片が集まっている。祖母の家と同じ石鹸の匂い。大学の図書室に似た机。友人宅で借りた毛布。
「ここを借りたいです」
「一週間だけです」
「家賃なら払います」
「帰る場所は、売りません」
時生は同じ言葉を繰り返した。
この部屋は、どこにも帰れない人が次の場所を選ぶまで現れる。長く隠れれば、外の住所を一つずつ忘れ、最後には部屋から出る理由まで失うという。
「外に、私の場所なんてありません」
「ありませんね」
あっさり肯定され、郁美は腹を立てた。
「普通、励ましませんか」
「空いていない場所へ、あるふりをして押し込むのは仲介ではありません」
時生は七枚の物件資料を机へ置いた。保証人不要の部屋、短期契約の部屋、職場に近い部屋。さらに労働相談窓口の予約票と、前の会社へ私物返還を求める文面までそろっていた。
「一週間で、帰る場所を決めてください。元の部屋である必要はありません」
言葉は冷たいのに、冷蔵庫には七日分の朝食があり、毛布は乾いていた。時生は濡れた靴の下へ新聞紙を敷き、部屋の外から鍵を掛けられないことまで二度確認した。
七日目、郁美は小さな部屋を契約し、新しい職場の面接も受けた。隙間の部屋を退去すると、募集札は窓から消えた。
鍵を返したとき、真鍮の方位磁針が郁美の手の中で回り、〈境井不動産〉の奥を指した。そこには『怪異物件調査補助・一名』という札がある。
「これも私にしか見えません」
「採用条件です」
「帰る場所は売らないんでしょう」
時生は葡萄色の袖を直し、事務所の予備鍵を差し出した。
「ええ。帰る場所は、売りません」
方位磁針の針が、今度は郁美ではなく、その鍵を指す。
「見つけ方を覚えた人と、一緒に増やすものです」