空欄の卒業証書

小鳥遊隼人は、市史編纂室で学校資料を整理していた。二十八歳。旧制小学校の箱から、氏名だけ空欄の卒業証書が一枚見つかった。校印も日付もなく、紙だけが新しい。

箱の底には、最後の校長が録音したカセットが入っていた。

《名前のない卒業証書に、自分の名を書いてはいけない》

校長の説明では、戦時中に戻らなかった児童へ空欄の証書を用意し、家族が帰還を諦めた日に名を書いた。卒業とは学校を終える意味ではなく、「こちらの村籍から出す」ための言葉だったという。

隼人は証書をスキャンしたが、OCRが氏名を要求して処理を止める。仮データで試すつもりになり、一度だけ鉛筆で《小鳥遊隼人》と書いた。

紙が熱を持ち、消えたはずの校印が浮かんだ。日付は今日。校長名には、隼人自身の署名が印刷されている。録音機は再生していないのに、卒業式の拍手を流し始めた。

隼人が名前を消そうとすると、鉛筆の線は紙の繊維へ沈んだ。スキャナの排紙口から式次第が何十枚も出て、卒業生欄はすべて小鳥遊隼人。保護者席だけ《空席》だった。

スキャン画像は市の公開アーカイブへ自動投稿され、閲覧数が一分ごとに一人ずつ増えた。閲覧者名は隼人がこれまで関わった人々で、開いた順に連絡先から消えていく。最後に母の名が表示されると、証書の保護者欄へ薄く印字された。隼人が公開停止を押すと、管理画面は《卒業生本人には編集権限がありません》と返した。

彼は証書を資料室へ置いて帰った。翌朝、住民票アプリから学歴連携の通知が来た。

《卒業処理が完了しました》

《現在の在籍先:なし》

会社の社員証、銀行口座、携帯契約が順に「在籍確認不能」となった。家族チャットでは、母が卒業式の写真を送ってきた。壇上には隼人がいるが、客席の家族は全員こちらへ背を向けている。

午前零時、玄関のスマートロックが自動で解錠された。

《次の校舎から迎えが到着しました》

インターホンの音声だけが、日常的な口調で告げた。

「小鳥遊隼人さん、ご卒業おめでとうございます。出口はこちらです」