給料日の手前
給料日前夜、二百七十三人分の振込データが、銀行へ送る直前に半分の大きさになった。
給与代行会社の鏑木透子は、送信画面の「形式正常」を見ても承認印を押さなかった。総務担当者は午前零時の締切を気にして、「エラーがないなら送ってください」と電話で繰り返した。
透子は前月ファイルとの件数差を見た。社員数は二人増えているのに、データ行数は百三十八行しかない。ファイル末尾のチェックサムは一致している。壊れて途中で切れたのではなく、作成時点から半分しか入っていないということだ。
今夜、給与システムは処理時間短縮のためバッチを二つに分けていた。ところが片方の完了通知だけで、結合処理が始まっていた。先に終わった正社員分は入っているが、時給社員分が丸ごと抜けている。
「形式は正しいです。でも中身が正しくありません」
総務担当者は沈黙し、やがて「正社員だけ先に送れないか」と尋ねた。透子は断った。同じ会社の給与を二便に分ければ、後便が遅れたとき、誰に払われ誰に払われないかが雇用形態で分かれる。技術上できることと、仕事としてしてよいことは別だった。
透子は送信を止め、未完了のバッチだけを再開した。全処理をやり直さないのは、既に確定した控除額が二重計算される危険があるからだ。完了後、二つのデータを結合し、社員番号の重複と欠番を別担当者に読み合わせてもらった。
締切三分前、二百七十三行のファイルができた。透子は最少額と最大額も前月と比べ、桁ずれがないことを見た。チェックサム、合計金額、件数。三つが一致する。透子はようやく承認印を押し、銀行へ送った。
翌朝、総務担当者から「全員入金を確認した」と短いメールが届いた。透子は返信する前に、前夜の手順へ一行追加した。
《完了通知ではなく、対象件数を確認する》
午前九時、隣の席から声が上がる。
「勤怠システムに、昨日の退勤が全員分ありません」
透子はコーヒーの蓋を開けたばかりだった。給料日は無事に始まった。だから次は、来月の給料を守る仕事が始まる。