緊急連絡先から消える朝
午前四時五十分、鷹取宗一郎の電話に池内沙耶から着信があった。
出ると、返事はない。代わりに空港の放送と、誰かの声が聞こえた。沙耶のポケットから誤発信されたらしい。
「本当に、宗一郎に言わなくていいの?」と女友達が訊いている。
「今さら無理。浮気したって信じてもらったんだから」
宗一郎は息を止めた。
一年前、沙耶は見知らぬ男とホテルへ入る写真を送り、別れを告げた。宗一郎は彼女を責め、連絡先を残したまま一度も電話しなかった。
「写真の男、従兄なんでしょ」
「南極観測に選ばれたって言ったら、あの人は昇進を断って待つ。嫌われたほうが、前へ進めると思った」
沙耶は今日から一年半、観測隊の医療担当として日本を離れるらしい。
宗一郎が名を呼ぶと、衣擦れが止まった。
「……聞いてた?」
「四分くらい」
「切って」
「写真は嘘だったのか」
「うん」
怒りが消えたあとに、もっと重いものが残った。
「俺が何を選ぶか、どうして沙耶が決めた」
「待たせたくなかった」
「待つかどうかも、俺の時間だ」
四時五十七分。搭乗開始の案内が流れる。
沙耶は、宗一郎が就職祝いに渡した銀色の方位磁針を持っていると言った。裏には〈迷ったら電話〉と刻んである。
「一年、毎晩これを見てた。でも電話したら、嘘が全部無駄になるから」
「無駄でよかったんだよ」
「今でも好きって言ったら、待つ?」
宗一郎は答えなかった。以前なら即答していた。けれど彼女が守ろうとした一年のあいだに、彼も仕事を選び、部屋を変え、好きだった人を憎むことで生活を作ってしまった。
「帰ったら、方位磁針を返す」
「郵送でいい」
「会って返したい」
「そのとき決める。今の俺に、一年半後の答えまで決めさせないでくれ」
搭乗口で名前を呼ばれた。
「分かった。今度は選ばせる」
午前五時、通話が切れた。宗一郎は医療情報アプリを開いた。事故のとき最初に連絡が行く相手は、まだ沙耶になっている。
彼はその名前を削除し、空欄のまま〈保存〉を押した。