花を一本だけ選ぶ日
雁金志保は、月末の日曜に一人で花市場へ行く。
部屋へ飾るためだが、花束は買わない。毎回一本だけ選ぶと決めている。
市場には季節の花が並んでいた。
薔薇、ラナンキュラス、チューリップ、枝もの。店員は「組み合わせますよ」と声をかけたが、志保はゆっくり首を振った。
「今日は一本だけ」
以前の志保は、休日も誰かと会う予定を入れていた。
一人でいると、友人が少ないと思われる気がした。食事も映画も展覧会も、誘える相手を先に探した。
けれど約束が重なり、自分が何を見たいのか分からなくなったころから、月に一度だけ誰にも連絡しない日を作った。
その日は、白いフリージアを選んだ。
細い茎に、まだ開いていないつぼみがいくつも並んでいる。店員が新聞紙へ包みながら言った。
「全部咲くと、かなり香ります」
「一度に咲きますか」
「花の都合ですね」
志保は市場の近くの喫茶店へ寄った。
窓際の一人席へ座り、カフェオレと固いプリンを注文する。花は向かいの椅子へ置かず、壁へ立てかけた。
ほろ苦いカラメルを食べながら、新聞紙の隙間から覗く白いつぼみを眺める。
誰かといれば、会話の途中で花を忘れたかもしれない。
今日は、店の珈琲豆を挽く音も、匙が皿へ触れる音も、フリージアの茎が紙を擦る音もよく聞こえた。
家へ帰り、細い硝子瓶へ一本だけ挿した。
広い食卓の中央ではなく、いつも座る椅子の隣へ置く。まだ咲いていないので、香りはほとんどしない。
その夜、志保は簡単なスープを作った。
玉葱とじゃがいもを煮て、胡椒を振る。湯気の向こうに白い花が立っている。誰にも写真を送らず、自分の目だけで確かめた。
三日後、一番下のつぼみが開いた。
仕事から帰って玄関を開けると、部屋に甘く青い香りが満ちていた。
一本しかないのに、留守の間も静かに休日の続きを進めていたらしい。
志保はコートを脱ぎ、花のそばへ座った。
次の月に何を選ぶかは決めない。花の都合、自分の都合、その日の匂いで選べばよい。
一人の部屋は空いているのではなく、一本の香りが隅まで届く広さを持っていた。