英雄の称号を預かる札
救世の英雄アゼルが宿《名無しの枕》へ来たのは、凱旋行列から逃げた夜だった。
金の外套、聖剣、胸いっぱいの勲章。どこから見ても本人なのに、彼は兜を深くかぶり、受付へ金貨を置いた。
「一晩だけ、誰にも英雄だと気づかれない部屋はあるか」
宿主フランシアは金貨を押し戻し、木札を一枚出した。
「商品は《称号預かり》付きの一泊。料金は銀貨一枚です」
「変装か」
「いいえ。肩書だけを受付で預かります」
木札には空欄がある。アゼルが触れると、胸の勲章から光が抜け、文字になって札へ並んだ。
《魔王を討った者》
《王国の希望》
《不敗の勇者》
《次代の公爵候補》
最後に《アゼル》だけが彼の側へ残った。
金の外套はただの古い布に見え、聖剣は旅人の剣になった。フランシアは頭を下げず、鐘も鳴らさない。
「二階、右の部屋です」
「それだけか」
「一泊ですから」
廊下ですれ違う宿の鏡も、彼を伝説の姿へ飾らなかった。疲れた目と寝癖のついた髪を、そのまま返した。
部屋には普通の寝台が一つ。英雄用の巨大な天蓋も、暗殺避けの結界も、祝福の花もない。アゼルは剣を壁へ立てかけたが、誰も盗みに来なかった。窓の下を人が通っても、名を呼ばれない。
彼は何度か寝返りを打ち、やがて大の字になった。
朝、受付へ下りてきた顔は、凱旋式より十歳若く見えた。
フランシアが木札を返す。称号の光が一つずつ勲章へ戻るたび、アゼルの肩は少し沈んだ。それでも最後まで受け取り、自分で外套を留めた。
「また預けられるか」
「営業時間内なら」
「では次は二泊。魔王討伐記念祭の夜だ」
彼は銀貨一枚を払い、二泊分を前金で重ねた。最初の金貨には手をつけず、そのまま宿の寄付箱へ入れる。
扉の外では、称号を取り戻した途端に遠くの歓声が上がった。アゼルは一度振り返り、ただの客として笑った。
「行ってくる」
「お帰りをお待ちしています、アゼルさん」
英雄が人波へ戻り、扉が閉じる。
一呼吸も置かずに、入口のベルが鳴った。フランシアは空の木札を一枚、受付へ滑らせた。