蓋をして三分
受験勉強の夜、朔耶は母の羽澄に鍋焼きうどんを作ってもらう。
一人用の土鍋に、うどん、鶏肉、椎茸、蒲鉾、葱。最後に卵を落とし、蓋をする。
「卵、固くしないで」
「勉強して待ってなさい」
机へ戻っても、台所の音が気になる。蓋がかたかた鳴り、出汁の匂いが廊下まで来る。
運ばれた土鍋は、蓋の取っ手まで熱い。
開けると湯気で眼鏡が曇った。卵の白身は固まり、黄身は柔らかい。
母は向かいで茶を飲み、食べ終わるまで何も訊かない。模試の結果も、志望校のことも。
朔耶は葱を残さず食べ、最後に黄身を崩して出汁を飲んだ。
試験前夜も同じものが出た。
「縁起物じゃないよね」
「温まるもの」
それだけだった。
春、朔耶は家を出た。合否とは別に、一人暮らしを始めるためだ。
冬になり、母から小さな土鍋が届く。鍋焼きうどんの材料と、〈蓋をして三分〉という紙が入っている。
自分で作ると卵は固まりすぎ、葱も煮えすぎた。それでも蓋を開けた瞬間、眼鏡が白く曇る。
遠い家の台所と同じ出汁の香りが部屋へ広がった。朔耶は曇りが晴れるまで待ち、熱い取っ手へ布巾をかけた。
二度目に作ったとき、朔耶は母と通話しながら火加減を見た。〈蓋を開けない〉と言われても、卵が気になって少し持ち上げる。画面の向こうで羽澄が笑った。三分後、黄身はちょうどよく柔らかい。朔耶は土鍋を画面へ見せ、母も自宅の鍋を見せた。同じ蒲鉾、違う形の椎茸。離れた部屋で同時に蓋を開けると、二つのカメラが湯気で白く曇った。声が途切れても、出汁の香りの向こうに家の夜が見えた。
通話を終えたあとも、画面には白い曇りが残った。朔耶は指で拭き、最後の出汁を飲む。土鍋の底から立つ熱は、母の家より少し早く冷めていった。
冷めた蓋を洗うと、取っ手はもう素手で持てた。布巾には椎茸と出汁の匂いが移り、一人の部屋を朝まで温めた。