蓋を開けたあとの席
富樫巴が寄せ鍋の蓋を開けると、向かいに空の椅子が一脚あった。
遅れて来る人はいない。高校時代からの友人五人で集まるはずが、一人は出産、一人は海外勤務、一人は感染症で欠席し、今夜ここにいる友人は一人だけだ。
巴も来月、町を出る。
長く目指していた舞台衣装の研修に受かり、パリへ一年行くことになった。喜ばしい知らせなのに、友人たちへ言えずにいた。集まる人数が減るたび、自分まで抜ければ、この鍋会そのものが終わる気がした。
高校の卒業前、五人は毎年この日に集まると決めた。就職で町を離れた人がいても、結婚して名字が変わっても続いた約束だった。巴は夢をかなえることが、約束を最後に壊すことのように思えていた。
昆布の香りを含んだ湯気が、空の椅子の背まで届いた。巴は花形のはんぺんを皿へ取り、噛んだ。白い身はふわりと沈み、縁だけ小さく弾んだ。
向かいの友人は、欠席者の分まで取り皿を並べていた。椅子は足りなくても、皿なら同じ卓へ置けるというように。巴はその一枚を重ねようとしたが、友人が止めた。
「写真だけ送るから」
空の皿へ、鍋から人参を一枚ずつ置く。画面の向こうの席を作るような手つきだった。
巴は合格通知を鞄から出した。外国語の学校名と、出発日。友人は読み終えると、空の椅子を巴の横へ動かし、その上へ通知を置いた。
祝いの言葉は短かった。
「次は時差で囲もう」
巴は二つ目の花形はんぺんを取った。半分だけ食べ、残りを空の取り皿へ置く。欠席者のためでも、未来の自分のためでもない。ここにいない人の席を、なくさずに残す一口だった。
友人が鍋の写真を撮った。空の皿、半分の花、合格通知の端まで写っている。グループチャットへ送ると、すぐ三つの反応が返った。時差も病室も育児中の部屋も、画面の中では同じ鍋の縁につながった。拍手、泣き顔、鍋のスタンプ。
巴はようやく出発日を文字で送った。
食べ終わったあと、空の皿は重ねず、テーブルへ一枚ずつ残した。集まりは、同じ部屋に全員そろうことではない。
蓋を開けたあとの席なら、離れた人の分まで、いくらでも増やせる。