蛸を噛む回数

矢代直紀は、空港で恋人を見送った帰りに「櫂」へ寄った。

 彼女は今夜、ニュージーランドへ発った。現地の農業法人で三年間働く。直紀は家具職人の工房へ入って二年目で、親方からようやく一人で椅子を任され始めたところだった。

 遠距離を続けようと直紀は言った。彼女は「いつか来る、を待つ三年にはしたくない」と首を振った。来てほしいと頼まれ、直紀は「二年後なら」と答えた。二年後に何があるか、二人とも説明できなかった。搭乗口の前で、恋人ではなくなることを決めた。

 抱きしめた腕を離したあと、彼女は「嫌いになったわけじゃないから、余計につらい」と笑った。直紀も同じだった。どちらかが悪ければ、飛行機の時刻だけを見て別れずに済んだかもしれない。

 店には直紀しかいなかった。黒糖焼酎を一杯頼むと、店主は蛸の炭火焼きを出した。吸盤の縁が焦げ、炭の上でじゅっと低い音がする。醤油と煙の匂いが立ち、厚い身は噛むたびに強く歯を押し返した。

 直紀の画面には、工房を辞めると親方へ伝える文章があった。今から空港へ戻っても便には間に合わない。けれど明日退職を告げ、後を追うと連絡すれば、彼女は喜ぶかもしれない。

 だが、工房を辞めたいと思ったことは一度もなかった。鉋で木の匂いが立つ朝も、削り直しを命じられる悔しさも好きだった。それを捨てて追えば、いつか彼女へ「君のために」と言ってしまう気がした。

「硬いな」

 直紀が呟くと、店主は炭をならしながら言った。

「噛み切れなきゃ、少し休め」

 直紀は退職の下書きを閉じた。明日は工房へ行き、任された椅子の脚を削る。土曜には、駅前の英会話教室の体験予約を入れる。彼女を追う約束ではない。二年後を言い訳にしないため、自分が海外で働けるのか、家具を続けたまま何ができるのかを調べる。

 今夜は到着確認のメッセージも送らない。着いたら彼女から連絡が来る約束だけは残っている。来なければ、それも答えだ。

 蛸を一度皿へ戻し、焼酎を飲んでから噛み直した。焦げた端がほどけ、中心には海の塩気と炭の熱が残っていた。噛み切るまでの回数を、直紀はもう数えなかった。