表札を裏返す朝

伊吹は名字を玄関に出したくない。妹の絵麻は、宅配の人が迷うから表札は必要だと言う。二人で借りた部屋のドアには、前の入居者が残した透明なケースがあり、絵麻が手書きの名字を入れていた。

ある朝、ポストに差出人のない封筒が入っていた。中身は、伊吹の大学時代の写真を印刷した紙だった。連絡を絶っていた元同級生が、最近またSNSに現れていた。伊吹は封筒を見た瞬間、膝から力が抜けた。

絵麻はすぐ警察と言った。伊吹は、まだ大げさにしたくないと言った。

「大げさにしてからじゃ遅い」

「分かってる。でも、私のことを勝手に事件にしないで」

「事件にしたくないから、先に動くんでしょ」

絵麻は外に強く、伊吹は外から自分を隠すことで生きてきた。どちらも同じ家に帰りたいだけなのに、方法が違う。

その日、伊吹は会社を休んだ。絵麻も午後の予定をずらした。二人は封筒をビニール袋に入れ、触った場所をメモした。絵麻が警察署の相談窓口を調べ、伊吹はSNSの画面を保存した。手順を追うと、怖さが少しだけ形になった。

出かける前、絵麻が玄関の表札を見た。白い紙に、二人の名字が太く書いてある。伊吹はそれを見ないように靴を履いた。

「裏返す?」

絵麻が聞いた。

「宅配、困るでしょ」

「今は宅配より、姉ちゃん」

伊吹は答えられなかった。絵麻はケースを開け、紙を取り出した。伊吹も手を伸ばす。二人で紙を裏返し、何も書かれていない面を外に向けた。ケースに戻すと、ドアは急によそよそしい顔になった。それでも、少し息がしやすかった。

警察署へ向かう道で、絵麻は封筒の入った袋を持ち、伊吹は記録用のノートを持った。表札は必要だという意見も、出したくないという気持ちも、消えなかった。消えないまま、二人は同じドアを閉めた。

帰り道、絵麻は「落ち着いたら別の表札を作る」と言った。伊吹は「落ち着くって何」と聞いた。答えは出なかった。部屋に戻ると、白い面の表札が廊下の灯りを反射していた。二人はそれをそのままにして、内側から鍵をかけた。名前のないドアでも、帰る場所にはなった。