裏底の署名

秋津綾乃は珈琲館「小舟」で、ゴーストライター契約の更新書を開いていた。

料理家の体験談として書いた失恋も、家族との確執も、材料は綾乃自身の記憶だった。公開されるたび読者は別の人へ共感を寄せ、綾乃には入金通知だけが届いた。名前を貸さない仕事なのだと、自分へ言い聞かせてきた。

三年間、人気料理家の名でエッセイを書いた。報酬は安定し、出版社とのやり取りも代理人がしてくれる。けれど綾乃が自分の名で書いた小説は、送る先を決められないまま、机の中に眠っていた。

更新すれば、また一年は暮らせる。更新しなければ、来月の家賃から不安になる。契約書の署名欄には、表へ出ない自分の本名だけが必要だった。

店主が出したカップは、素朴な灰色だった。長く使われ、縁は白く薄れ、持ち手の内側には細かなひびがある。飲み終えて裏返すと、底に小さく「R・1978」と刻まれていた。

壁には、同じ頭文字を持つ陶芸家の古い展覧会ポスターがある。若い頃、この店で働きながら器を焼いていた人だと、以前聞いたことがあった。今では作品に高値がつく。それでもこの一客は展示されず、何十年もコーヒーを受け続けている。

店主は空のカップを受け取り、底の署名へ布を当てた。汚れを落とすと、Rの線が少しだけ濃くなった。表側の傷には触れず、署名のある底を乾かしてから棚へ戻す。

会計で、店主は複写伝票の宛名を尋ねた。

「秋津綾乃です」

店主は一字ずつ確認し、店名より大きく書いた。客用の紙を切り離すと、青いカーボンの筆圧で、綾乃の名がくっきり残っていた。

席へ戻り、綾乃は更新書を閉じた。代理人へ、〈今回の更新は辞退します〉と送る。理由は書かなかった。

次に、机の中の小説ファイルを開く。作者名の欄は空白だった。領収書を横へ置き、その通りに四文字を打つ。

応募先の編集部へ原稿を添付し、件名を「小説投稿」にした。

送信ボタンを押す直前、怖さは少しも消えなかった。それでも綾乃は、契約書ではなく原稿のほうへ、自分の名を残した。