解約日の約束

高津戸昌春は、妻・冴子が亡くなってから三年間、毎晩九時に電話した。

食べたもの、血圧、近所の噂。冴子は生前と同じように相づちを打ち、「野菜を食べて」「奈帆に電話して」と小言を言った。

娘の奈帆とは、葬儀のあと疎遠になっていた。冴子の介護をどちらが担ったかで争い、昌春は「もう家へ来るな」と言った。奈帆が残していった孫の写真も、見れば腹が立つふりをして引き出しへしまった。死者回線があれば、妻を失っても一人ではないと思えた。昼間は誰とも話さず、夜九時までに報告する出来事を作るためだけに散歩した。

ある夜、冴子が言った。

『来月で回線を切ります』

「勝手に決めるな」

『死者側にも拒否権があります』

「俺を一人にするのか」

『もう三年、一人でいないでしょう。私を使って、奈帆と会わずに済ませてるだけ』

昌春は怒って受話器を置いた。翌晩かけると、冴子は五つの宿題を出した。

奈帆へ謝る。自分で味噌汁を作る。友人と花見へ行く。庭の柿を剪定する。健康診断を受ける。

『全部できたら、解約日に最後の電話へ出ます』

昌春は子どものような条件だと文句を言いながら、翌日、奈帆へ電話した。

謝罪は失敗した。「おまえも悪かった」と付け足して切られた。二度目は言い訳をやめた。奈帆はすぐには許さなかったが、春に孫を連れてきた。

味噌汁は三回焦がし、花見では酔って転び、柿の枝を切りすぎた。健康診断では糖尿病予備群が見つかった。

生活は面倒になった。冴子と話すだけなら、毎日同じ九時へ戻れた。生きている人は予定を変え、怒り、返事を保留し、こちらの思い通りにならない。

解約日の夜、昌春は机の前に座った。奈帆から「来週、病院付き添う」とメッセージが届いた。鍋には自分で作った味噌汁があった。

九時、死者回線へ電話した。

呼び出し音が続いた。

冴子は出なかった。

「全部やったぞ」

留守番のない回線へ言うと、端末に短い文字が表示された。

〈だから、出ません〉

昌春はしばらく怒り、それから笑った。

翌朝、回線を解約した。妻との会話を捨てたのではない。妻が自分へ返した時間を、受け取ることにしたのだ。