試供品の花

 砥部景親は、商店街の花屋で配達をしている。

 閉店前になると、向かいの古い時計店へ花を一本持っていった。

「今日の試供品です」

 店主の老婦人は毎回、怪しそうに受け取る。

「花に試供品なんてあるの?」

「香りを試してもらう制度です」

「初めて聞いた」

 最初は、茎の曲がったガーベラだった。

 次は少し開きすぎた薔薇。その次は短く折れた金魚草。

 売り物になりにくい花を、景親は小さく包んで届けた。

 夫を亡くした老婦人が、店の奥へ花を飾っていたことを知っていたからだ。

 老婦人は代金を払おうとした。

 景親は「試供品は無料」と断った。

 翌日、時計店の前へ焼き菓子が一つ置かれていた。

「新商品の試食です」

 老婦人は真顔で言った。

「時計店の?」

「時間を計って焼いたから」

 二人の交換が始まった。

 花屋には、毎週少しずつ事情のある花が出る。

 花弁が一枚欠けた百合、色の薄いカーネーション、注文より余ったフリージア。

 時計店には、毎週少しずつ焼きすぎた菓子や、多く淹れた茶が出る。

 どちらも偶然ということになっていた。

 ある日、景親は傷のない白いトルコ桔梗を持っていった。

「これは売れるでしょう」

 老婦人がすぐ言った。

「香りの試験が必要です」

「ほとんど匂わない花よ」

「では、持ちの試験」

 老婦人は花を受け取り、しばらく見つめた。

「私が寂しそうだから?」

 景親は答えに困った。

「時計店に色が足りないので」

「優しい嘘は、長く続けると上達するね」

「そちらも」

 その日の焼き菓子は焦げていなかった。

 二人は秘密を認めたが、制度はやめなかった。

 景親は週に一度〈試供品〉を届け、老婦人は〈試食〉を返す。

 商店街の人に理由を訊かれても、品質検査だと答えた。

 冬の夕方、フリージアを一本持っていくと、時計店の古い振り子が五時を打った。

 老婦人は花を硝子瓶へ挿し、温かな紅茶を二杯出した。

 青く甘い花の香りと、焼いたバターの匂いが、歯車と油の匂いへゆっくり混じる。

 試供品でも、売れ残りでもない。

 二人とも知っている。

 それでも名前をつけ替えることで、受け取る側は負い目を持たず、渡す側も照れずに済んだ。

 小さな嘘は毎週一輪ずつ、時計店の静かな時間へ色を置いていった。