赤い郵便受けとベンチ
丹羽野夏実は、企業の公式アカウントを運用していた。
朝から夜まで「今、見せるべきもの」を探し、食事も空も誰かの笑顔も、まず画面の中で整えた。投稿しない出来事は、存在しなかったように感じる日さえあった。
退職後、谷間の村へ移り、坂道の角にある古民家を買った。
玄関脇の郵便受けは錆び、蓋が閉まらない。夏実は鮮やかな赤へ塗り直し、作業の写真を撮った。
投稿文まで書いたが、公開ボタンは押さなかった。
乾きかけの塗料に夕日が映るのを、画面越しではなく見ていたかった。
郵便受けを直すと、古い板が余った。
夏実はそれで小さなベンチを作り、道に向けて軒下へ置いた。脚の長さが少し違い、座ると右へ傾く。
近所の大工が木片を一枚かませ、「これで十分」と笑った。
最初に座ったのは、畑帰りの老婦人だった。
「坂の途中に休む場所ができた」
翌日は配達員が荷物を置き、その次の日は学校帰りの子どもが靴紐を結んだ。
夏実は一人ずつ写真へ撮りたくなったが、携帯を取り出さなかった。
代わりに水を出したり、みかんを半分に割ったりした。
ある雨の日、郵便受けへ手紙が入っていた。
差出人の名はなく、便箋に〈ここへ座ると、谷の風がよく分かります〉と書かれている。
夏実は返信先を探せないまま、その紙を台所の壁へ貼った。
秋には、ベンチの横へ小さな棚を足した。
余った野菜や読み終えた本を置く棚だ。朝には南瓜があり、夕方には代わりに文庫本が二冊載っている。
誰が持ってきたか分からなくても、村の中を物がゆっくり巡った。
夏実は古民家の修繕記録を写真へ残したが、毎日は投稿しなかった。
柱を磨いた日、庭の柿を干した日、ベンチで三人と茶を飲んだ日。見せなくても、手の中に感触が残った。
冬の午後、夏実は赤い郵便受けの隣で珈琲を淹れた。
通りかかった老婦人がベンチへ座り、二人で湯気を分けた。挽いた豆の香りと、日に温められた杉板の匂いが混じる。
「今日は写真を撮らないの」
「今日は、ここに置いておきます」
夏実は胸元を指した。
坂を風が下り、郵便受けの蓋を小さく鳴らした。
誰にも配信されない夕方が、赤い箱と傾いたベンチの周りに、消えずにゆっくり積もっていった。