追放王子の名を洗う杉灰湯

 国境の温泉宿《名なし庵》へ、オズリックは王家の猟犬を振り切って来た。

 追放された元王子である。王位を狙っていなくても、血に染みついた《王香》を犬が嗅ぎつける。捕まれば反乱の旗印として処刑される。

「名も顔も捨てた。だが匂いだけが私を王子へ戻す」

 主人サイカは、彼が握る印章を見ずに言った。

「杉灰湯なら王香を洗えます。ただし、一度落とせば二度と王族の結界を通れません」

 オズリックは黙った。王都へ戻る道まで消えるということだ。

「湯へ入る前に決めてください。逃げるためか、別の人生を始めるためか」

 浴室には杉を焼いた灰が薄く浮いていた。王香へ反応し、金色の輪を作っている。

 オズリックが肩まで沈むと、輪は肌へ集まった。幼い頃の戴冠礼、臣下のひざまずく姿、父王の「お前は国のものだ」という声。香りに結びついた記憶が湯気となって立ち上る。

 同時に、厨房で初めて焼いた不格好な丸パンの匂いも現れた。王香に隠されていただけで、それは彼自身の記憶として残っている。

「止めれば、まだ戻れます」

「戻っても、私の席は処刑台だけだ」

 彼は首まで深く沈んだ。

 金色が灰へ吸われ、湯はただの濁り湯に戻る。王子として命じられた癖は消えないが、それを続けるかどうかは今から自分で選べる。湯上がりの彼からは、杉と石鹸の匂いしかしなかった。

 宿の外では猟犬が一度鼻を鳴らし、オズリックの横を通り過ぎた。追手も「旅人が一人いるだけだ」と目をそらす。彼は初めて、見逃されたのではなく自由になった。

 彼は震える手で笑った。

「南の町でパンを焼く。昔、厨房で一度だけ褒められた」

 料金皿へ置いたのは王家の印章ではない。街道の荷運びで得た銅貨だった。印章は自分で炉へ投げ、溶けるまで見届ける。

「次に来るときは、宿へ卸すパンを持ってくる」

「代金とは別に買います」

「では、客としてまた湯へ入る」

 名を持たない男が南へ歩き出す。

 サイカが売上箱に銅貨を落とした直後、玄関の小さな鐘が鳴った。今度の客も、名を尋ねられる前に湯気の匂いを吸い込んだ。