退去日に残す一行
御子柴瑠佳は、借りた場所から自分の痕跡を消すのが得意だった。ホテルではごみを一つにまとめ、会議室では椅子を元の角度へ戻す。迷惑をかけない人でいるには、来る前と同じ状態にして帰ればいい。職場でも共有資料から自分のコメントを消し、借りた机には私物を置かなかった。「いたことを忘れるくらいきれい」と褒められると安心した。場所を汚さないことと、場所に何も残さないことが、いつの間にか同じ意味になっていた。短期賃貸の管理人から「使っていないみたいにきれいでした」と礼を言われたとき、瑠佳は誇らしかった。けれど旅の写真を見返しても、泊まった部屋の匂いや窓の景色だけは、ほとんど思い出せなかった。
改装前の古い共同住宅を三週間だけ借りたとき、荒巻久良と同室になった。久良は次の入居先が決まるまで暮らす版画家で、窓辺に拾った木の実を並べ、台所の壁へ近所のパン屋の営業時間を書いた紙を貼った。三週間しかいないのに、廊下で会う住人へ挨拶し、軋む床板には小さな紙の印を置いた。部屋を元に戻せないほど汚しはしない。ただ、いた時間をなかったことにもしなかった。
瑠佳は退去前日、その紙も木の実も片づけようとした。久良は止めず、代わりに訊いた。
「次の人が、説明書より先に知るといいことって何だろう」
「給湯器の使い方?」
久良は首を傾け、細い紙片を一枚渡した。
「明日、一行だけ残してみて。役に立たなくてもいい」
瑠佳は「鍵は固いので右へ強く回す」と書きかけたが、それは管理会社の冊子にある。ごみの曜日も、最寄りの店も載っている。自分が知っていて、次の人が知らないことなどないように思えた。
退去日の朝、久良は先に出た。机も棚も空になり、部屋は三週間前の匂いへ戻っている。瑠佳は最後に窓の鍵を確認した。
十センチだけ開けると、向かいのパン屋から焼けた小麦の匂いが上がってきた。夕方ならもっと甘い。雨の日は湿った廊下へ混じり、晴れた日は階段の下まで追いかけてくる。冊子には載らないが、瑠佳がこの部屋で覚えた唯一の時刻だった。疲れて帰った日、二人は何度かその匂いだけで台所に立てた。
瑠佳は紙片へ書いた。
「夕方、窓を十センチ開けると、パンの匂いがします。」
そこで一度ペンを止めた。誰が残したか分からないほうが、部屋はきれいかもしれない。
瑠佳は文末に「瑠佳」と足し、次の人の目の高さへ紙を貼った。