退職アカウントの向こう
冬也の社内アカウントが消えるまで、あと二十五分だった。
ゲーム会社のサーバー室で、晶子は退職端末のデータ移行を確認していた。外では送別会が始まっている。
「最後に聞いていい?」
冬也が椅子を回した。
「オンラインゲームの〈Mica〉って、晶子?」
晶子の指が止まる。彼女のノートパソコンには、Micaの猫型アイコンと同じステッカーが貼ってあった。
「知らない人」
「三年、毎週話してる相手なのに?」
二人は同じゲームのギルドで、顔も本名も知らないまま親しくなった。冬也はある夜、Micaに〈会社に気になる同僚がいる〉と相談した。その相手が自分だと気づいた晶子は、名乗れなくなった。
好きだと言えない理由は一つ。正体を明かせば、相談を聞きながら黙っていた自分が、彼の心を盗み見ていたように思えるからだ。
ゲームの中では、冬也は失敗した企画の愚痴も、眠れない夜のことも話した。会社では明るく振る舞い、晶子には新作のバグ報告しか送らなかった。Micaとしてなら「無理しないで」と言えたのに、隣の席では言えなかった。匿名の優しさを積み上げるほど、正体を明かす日の裏切りが大きくなった。サーバー室の青いランプが順番に消え、二人の顔を断続的に照らしていた。
「どうして気づいたの」
「送別品のメッセージ。句読点の癖が同じ」
「知らない人だよ」
二度目は、ほとんど願いだった。知らないままなら、嫌われずに済む。
移行画面は残り十二分を示す。冬也は会社のチャット履歴を削除し始めた。
「Micaに、会おうって送った。返事がない」
「退職日に何してるの」
「同僚じゃなくなるから」
晶子は自分の携帯を開いた。Mica宛ての通知が一件、未読のまま光っている。
「知らない人だった」
三度目だけ、過去形にした。
「知ってほしいと思ってから、言えなくなった」
午前零時、冬也の社内アカウントが画面から消えた。
晶子はゲームを開き、Micaではなく本名の新しいアカウントから、冬也へフレンド申請を送った。承認の音が、誰もいないサーバー室で鳴った。