退職ボタンの前で

求人広告会社へ入社して一か月、朝比奈梓は、担当を引き継いだ飲食店から初めてクレームを受けた。

「掲載開始から二週間、応募が一件もない。そもそも、店名で検索しても広告が出てこないんです」

契約は三十万円。営業資料には赤い字で〈最短翌日掲載〉とある。管理画面を開くと、広告は「公開中」と表示されていた。先輩は「検索順位は保証外。原稿を少し直して様子を見てもらって」と指示した。

梓は応募がないことより、表示回数が零であることに引っかかった。人気がなくても、公開中なら一度も表示されないのはおかしい。

媒体側の画面へ入り直すと、広告は本人確認書類の不足で審査保留になっていた。社内画面の「公開中」は、前任者が手入力した状態だった。さらに共有フォルダには、検索結果を加工した画像が保存され、店主へ掲載証明として送られている。

「掲載されていませんでした」

梓が先輩へ言うと、相手は扉を閉めた。

「前任者が数字を作ったんだろうね。でも今さら認めたら返金になる。媒体の不具合にして、今日から二週間延長すればいい」

電話の保留ランプが点滅している。店主は、誰かを採用できると信じてシフトを組み、既存の従業員へ残業を頼んでいた。

梓は保留を解除した。

「広告は掲載されていませんでした。当社の確認と報告に誤りがあります。全額返金と、希望される場合は正しい手続きでの無償掲載を申請します」

店主はしばらく何も言わなかった。やがて、「応募がなかったことより、出ていると言われ続けたことが腹立たしい」と答えた。

通話後、梓は審査画面と改変前のログを添え、返金申請をコンプライアンス窓口へ送った。先輩は青ざめ、「新人が会社を売るのか」と言った。

「売ったのは、出ていない広告です」

梓の受信箱には、明日からも同じ説明を続けるための営業台本が届いていた。公開中と言い切る文に、黄色いマーカーが引かれている。

梓は人事システムを開いた。退職理由には、長い告発文を書かなかった。

〈事実と異なる説明を業務として継続できないため〉

返金申請が受理された通知を確認し、その下で退職届の送信ボタンを押した。