送信履歴のない一文

時間通信サービスの公開前夜、橘高嘉月は十年後の自分から届いた一文を見つめていた。

〈この装置を作れ。設計鍵は銅板の裏にある。〉

机には名刺ほどの銅板。裏面の数式を入力すると、端末は一文を過去へ送った。翌朝、投資家向け実演が成功すれば会社評価は一兆円。嘉月は発明者として歴史に残る。

実演の瞬間、装置は過熱して停止した。視界が暗転し、また前夜。銅板。十年後からの同じ一文。

嘉月は失敗原因を一文にして昨日の自分へ送った。

〈冷却層を二枚増やし、送信後〇・八秒で電源を切れ。〉

二周目は受信誤差、四周目は量子鍵、七周目は投資家の質問まで修正した。戻るたび、過去の嘉月は理由を知らないまま装置を完成させる。

十周目、実演成功。十年前のニュース端末に、未来から送った「成功」の文字が現れた。拍手、契約、発明者の称号。成功条件達成。

確定処理を開くと、最初の送信履歴が存在しなかった。銅板の数式は十年後の嘉月が若い自分へ送り、若い嘉月が十年後に同じ文を送る。誰も発明していない。さらに各周回の記録には、送信一回ごとに嘉月の自伝的記憶が一日分、通信の誤差補正へ使われたとある。

母の葬儀、大学の友人、最初に失敗した回路。思い出そうとすると、銅板のような平面しかない。成功した未来の嘉月は会社と名前を得る代わりに、自分を作った時間をほとんど失っていた。

端末が最後の一文を求める。

〈因果環を固定するため、十年前へ「この装置を作れ」と送信してください〉

送れば発明は永遠に起源を持たず、嘉月も永遠に同じ命令を受け継ぐ。

彼は銅板を裏返し、別の一文を入力した。

〈この文を受け取ったら装置を壊し、設計ではなく橘高嘉月の全研究記憶を消去しろ。〉

送信。

翌朝、嘉月は古い電子修理店の作業台で目を覚ました。時間通信会社も投資家も存在せず、十年分の研究ノートは白紙。自分が何を目指していたのかも分からない。銅板だけが引き出しにあり、裏は滑らかだった。

店の時計が零時を越えた。通知は来ない。

嘉月は銅板を小さな部品受けに使った。そこへ落ちた一本のねじが乾いた音を立てる。その音には未来も過去もなく、送信履歴のない現在だけが残った。