鍵のない引き渡し
不動産会社の担当者が、鍵を三本、白いトレーの上に並べた。
玄関、勝手口、物置。家の引き渡しまで、あと十分。朔実は鞄の内ポケットから玄関の合鍵を出し、四本目として置いた。
「それで全部ですか」
担当者に聞かれ、母が先に答えた。
「娘がもう一本持っていたはずよ」
「これだけだよ」
「大学のとき渡した、青い札の」
「前の鞄ごと処分した」
母は眉をひそめた。空になった居間には、カーテンも時計もない。声だけがよく響く。
「鍵をなくしたなんて、どうして言わなかったの」
「なくしたんじゃなくて、要らなくなったから捨てた」
「実家の鍵を?」
母はその言葉を、家そのものを捨てたと言うように口にした。
担当者は気まずそうに書類へ目を落とした。朔実はトレーの四本を数え直す。契約上必要な本数はそろっている。
母が小声で言った。
「じゃあ、新しい部屋の鍵は私に一本ちょうだい。今度は失くさないように預かるから」
母の引っ越し先ではなく、朔実が先月借りた部屋の鍵のことだった。住所を知らせた日の電話でも、同じことを言われた。
「渡さないよ」
「何かあったら困るでしょう」
「管理会社に連絡する」
「親より管理会社を頼るの?」
「鍵を持っている人より、入る前に連絡する人を頼る」
母は口を閉じた。
担当者が確認書を差し出した。朔実は「鍵四本返却」の欄へ署名する。母は横から覗き込み、「字が雑」と言いかけて、最後まで言わなかった。
署名の下に、日付を書く。今日で、この家の鍵は誰のものでもなくなる。けれど母が求めているのは、鍵そのものではない。いつでも娘の暮らしへ入れるという、形のある許可だった。
担当者が鍵を封筒へ入れた。封をする前、母が玄関の鍵を一本つまむ。
「記念に持っていては駄目?」
「引き渡すものなので」と担当者が丁寧に答えた。
母は鍵を戻した。第三者に言われると、驚くほど素直だった。
家を出る前、朔実は母へ小さな紙を渡した。新しい住所の下に、「訪問は前日までに連絡」「返事がない日は来ない」と書いてある。
「親子なのに、規則がいるの」
「親子だから、いる」
母は紙を二つに折った。破らず、財布へ入れる。
担当者が玄関の扉を閉め、鍵を回した。金属音が一度だけ響く。朔実の鞄には、自分の部屋の鍵が一本ある。予備は管理会社に置いた。
「今度、いつ行けばいい?」
母が聞いた。
「連絡して。私が返事をした日」
朔実はそう答え、鍵のない母と並んで門を出た。手の中には何もなかった。その空き方を、初めて自由だと思った。