鍵を返す前の教室
取り壊し前の校舎で、灯里は古い鍵を握っていた。真鍮の札に〈二年六組〉と刻まれている。
高校の文化祭で教室喫茶をしたあと、実行委員だった灯里と凛子が最後に戸締まりをした。客席の机は戻され、窓には紙テープの跡だけが残っていた。二人は売れ残ったココアを飲みながら、いつか本当の店を開こうと話した。凛子は接客、灯里は焼き菓子。窓際に小さな本棚を置き、雨の日だけメニューを増やす。黒板の端へ店名候補まで書いた。片づけの時間なのに、二人だけは始まりの相談をしていた。
「今日が終わったら、全部なくなるね」
灯里が言うと、凛子は教室の鍵を回した。
「終わったから閉めるんじゃないよ。明日また使えるように閉めるの」
その言葉を、灯里は長く覚えていた。
けれど卒業後、二人は別々の道へ進んだ。凛子は福祉の仕事に就き、灯里は飲食店を転々とした。連絡は年に一度になり、一緒に店を開く約束も、いつの間にか話題にしなくなった。
鍵は、あの日エプロンのポケットへ入れたまま返し忘れたものだった。気づいたのは卒業後だったが、返す機会を逃すうち、お守りのように財布へ入れ続けた。仕事を辞めるたび、約束を果たせない自分を責める道具にもなった。十年後、校舎解体の知らせを見て、ようやく持ってきた。
管理担当の先生へ渡す前に、灯里は教室へ入った。机も黒板も撤去され、窓際の床だけが夕日に照らされている。記憶の中より狭かった。
戻りたいとは思わなかった。凛子との約束が叶わなかったことも、今では失敗ではない。あの教室で店を夢見たから、何度仕事を変えても、食べ物をつくることだけは手放さなかった。
灯里は鍵を先生へ返した。校門を出ると、鞄の中で別の鍵が鳴った。明日開店する、小さな焼き菓子店の新しい鍵だった。退職届を出し、貯金の大半を使い、もう誰かとの約束のせいにはできない店だった。
店に着き、まだ看板のない扉へ差し込む。回す手は震えたが、開いた先には自分で選んだ机とオーブンがある。
灯里は古い教室を閉めたまま、新しい扉を開けた。