門柱より先へ
最後のホームルームが終わっても、甲斐谷広夢は黒板を消していた。
色とりどりの〈また会おう〉が、黒板消しの下で灰色に混ざる。卒業の日くらい残せばいいのにと誰かが言ったが、広夢は日直だった。黒板をきれいにしてから帰るのが、三年間の癖だった。
志摩野依子は一度帰ったはずなのに、教室の後ろで待っていた。
「校門の写真、みんないなくなるよ」
「先に撮ればよかったのに」
「広夢がいない」
黒板には、右下の一行だけが残っている。
〈甲斐谷へ 第二ボタン、予約済み〉
依子の字だった。
広夢はそこを消せず、黒板消しを持ったまま立ち止まった。
「いつ書いた」
「朝。気づくの遅い」
「みんな見てた?」
「見てた。広夢だけ見てなかった」
胸元へ手をやる。第二ボタンはまだある。誰にも頼まれなかったと思っていたのは、自分が黒板を見なかったせいだった。
広夢は制服を引っ張ったが、糸は切れない。依子が筆箱から小さな鋏を出す。
「準備よすぎ」
「予約したから」
ぱちん、と音がして、黒いボタンが依子の掌へ落ちた。広夢は代わりに、黒板の一行をスマートフォンで撮った。
「それ、消していいよ」
「消したくない」
「日直でしょ」
依子は黒板消しを取り、文字を一気に消した。白い粉が制服の袖へかかる。
「残す場所、そこじゃないから」
二人で校門へ走った。立て看板は片づけられ、友人たちはもう駅へ向かっていた。門を閉めようとしていた用務員に頼み、最後の一枚を撮ってもらう。
依子は第二ボタンをカメラへ見せ、広夢は卒業証書の筒を持ち上げた。背景には校名だけが残り、桜も人影もほとんどない。
シャッターが切れると、用務員が「もう門を閉めるよ」と言った。
二人は外へ出る。
鉄の門が背後で重い音を立てた。
広夢は写真を確認しようとしたが、依子が画面を伏せた。
「歩きながら見よう」
「どこまで?」
「門柱より先」
広夢は振り返らなかった。
黒板の言葉は消え、ボタンはもう胸にない。それでも隣を歩く足音だけで、今日なくしたものが全部、次の場所へ運ばれているとわかった。