開くかだけ確かめる
山根蕗子は、市民センターの写真教室の前を毎週通った。
仕事帰り、ガラス越しに暗室の赤い灯りや、壁へ並ぶ写真を見る。学生時代はよく撮っていたが、就職してからカメラは押し入れに入ったままだった。教室の案内を三度持ち帰り、申込期限のたび捨てた。参加者はきっと上手な人ばかりだし、残業で休むかもしれない。扉を開けなければ、向いていないと知ることもない。
案内には、初心者歓迎と書かれていた。それでも蕗子は、初心者という言葉を「下手でも許される人」ではなく、「下手だと見つかる人」と読んだ。押し入れのカメラは、電池を抜かれたまま、始めなかった証拠にも失敗しなかった証拠にもなっていた。
その夜、教室の前で紙の冠が床を滑ってきた。追いかけてきた女の子は一花、七歳。隣室の劇遊び教室で王様役をしていたらしい。冠は写真教室の扉の下へ半分入り込んだ。
「取って」と一花が言う。
「教室中だから、勝手に開けられないよ」
「ノックする?」
蕗子が迷っていると、一花は取っ手へ手を伸ばしたが、背が足りない。
「開くかだけ確かめて。入るかはあとでいいから」
「開いたら、入ることになるでしょう」
「冠だけ入ってる」
一花の理屈では、扉の向こうへ行くのは人ではなく冠だった。蕗子は仕方なくノックし、取っ手を下げた。
室内では、講師が数人へ写真を配っていた。扉の近くに落ちた冠を拾うと、講師が「見学の方ですか」と訊く。
蕗子は反射的に否定し、冠を一花へ返した。女の子は礼もそこそこに、王様の列へ戻っていった。
一花は冠をかぶり直し、廊下の端で待つ仲間へ走った。紙の王様は、扉を開けた蕗子のことなどもう見ていない。蕗子は、誰かに勧められたから入るのでも、才能を保証されたから入るのでもないことに気づいた。
扉はゆっくり閉まり始める。赤い灯りの中に、雨粒のついた窓を写した一枚が見えた。上手かどうかは分からない。ただ、もう少し近くで見たかった。
室内から、現像液のかすかな匂いと、紙をめくる音が流れてきた。案内の写真より近い場所に、知らない時間が続いている。扉が閉じれば、また来週も通り過ぎる自分を簡単に想像できた。
閉じる直前、蕗子は取っ手をもう一度つかんだ。
「見学だけでも、入っていいですか」
今度は冠のためではなく、自分の肩が通る幅まで扉を開けた。